1839年、森村氏は初代からずっと市左衛門を名乗ってきた江戸・京橋の馬具商の六代目として生まれました。元は旗本出入の老舗でしたが、当時の森村家は借金による貧困に苦しんでいたうえ、幼い森本氏も生まれつき病弱で、早くに母親を亡くしたため、数え年13歳で呉服問屋に見習い奉公に出たそうです。
しかし、病に苦しんだ森村氏はわずか3年で実家に帰ることになったうえ、安政江戸地震や日本橋大火によって屋敷や家財のすべてを失ったため、昼は日雇い労働者として、夜は銀座で露天商として働くなど苦難を乗り越えるために懸命に働くことになりました。
やがて倹約に倹約を重ねて蓄えた資金を元手に、京橋に再び武具・袋物商を開いた森村氏は日米修好通商条約によって開港になったばかりの横浜でさまざまな外国商品を仕入れ、土佐藩や中津藩の藩邸などに行って商売をするようになります。
何でそう私にやらせるのかというと、つまり熱心だからである。熱心と正直ということが広告になって、何でも言いつけられた。ただ熱心で、そうして儲けない。よそでは2割も儲けるというのに、こちらは5分しか儲けないというやり方をするから、自然に信用というものが集まってくる。
(出典:『森村市左衛門の無欲の商売』p30~p31)
この時に出会ったのが中津藩の福沢諭吉氏です。のちに森村氏は「国家のために外国貿易を」と考え、実行に移しますが、そこには福沢氏の強い影響があり、また弟の豊吉氏(のち「豊」に改名)に英語を習わせるために福沢氏の慶應義塾に入学させています。
しかし、役人からの賄賂の要求に怒った森村氏は順調だった馬具製造の事業一切を陸軍省に差し出し、森村氏自身は弟の渡米を期に、つねづね考えていた外国貿易を行うために「森村組」を創立しています。
1878年、森村豊氏は森村組ニューヨーク支店を開設。本格的な貿易事業に乗り出しますが、最初は日本の道具屋で森村氏が仕入れたものをアメリカに送って弟が売るというような商売でした。
それでも順調に売り上げは伸び、やがて弟の豊氏からフランス製のコーヒー茶碗の見本とともに「このような製品が日本でできれば、アメリカでは大量に売れるはずなので、試しにぜひ焼いてみてくれないか」という依頼が来たことが、森村組が陶磁器の製造に乗り出すきっかけになりました。
当時の日本にはもちろん立派な焼き物をつくる力はありましたが、どの窯元も洋食器をつくった経験はありませんでした。まったく製法が分からず、どの窯元からも「できない」という返事が返ってくるばかりでしたが、豊氏の熱意に押された森村氏や大倉氏が窯元と共に努力を重ねた結果、日本製コーヒー茶碗はようやく完成、アメリカで素晴らしい販売成績を上げることになりました。
その後も豊氏からはさまざまな注文が届きますが、さらなる発展のためには需要の多いテーブルウェア(食卓用食器具)が必要だとして、挑戦した白色硬質磁器のディナーセットには大変な苦労をすることになります。
当時の日本の陶磁器は生地の色が純白ではなく灰色で光沢が少ないという欠点がありましたが、ディナーセットに求められるのはヨーロッパの陶磁器のような純白の生地と光沢、そして強さです。
そのためにはすべてを一から自分たちでやる必要があると考えた森村氏は1904年、現在の名古屋市西区則武新町に日本陶器合名会社 (現在のノリタケカンパニーリミテド) を設立、近代的な設備を備えた大工場を建設しました。目指したのは「舶来品と同質の日用品をつくり、欧米人に使ってもらう」というものです。