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企業にとって商品が爆発的に売れている時、業績が好調な時の変革というのはとても難しいものですが、世界最大のタイヤメーカー、ブリヂストンの創業者・石橋正二郎氏の人生はまさに「売れている時の大改革」の連続でした。地方の「ちっぽけな仕立屋」から足袋専業に踏み切り、地下足袋の大ヒット、ゴム靴の世界的成功を経て「困難」と言われた国産自動車タイヤへの挑戦と、幾度もの変革を成し遂げて、世界的企業をつくり上げたのです。
目指したのは「全国的に発展する事業で世のためになる」こと
1889年、福岡県久留米市の「ちっぽけな仕立屋」の二男として生まれた石橋氏は小学校を首席で卒業、先生や父兄からも「石橋を見習え、ああでなくてはいけない」と言われるほどの模範生でした。
久留米商業高校時代も成績が良く、神戸高商への進学を希望していましたが、病気がちの父親からの「引退して兄弟二人に仕事を任せたい」という願いを聞き入れて石橋氏は進学を断念、17歳で兄の重太郎氏と家業の仕立屋を継いでいます。
石橋氏は神戸高商に進学した親友の石井光二郎氏のことを「羨ましく思った」と振り返っていますが、すぐに気持ちを切り替えています。こう話しています。
「私は、一生をかけて実業をやる決心をした以上は、何としても全国的に発展するような事業で世のためにもなることをしたいと夢を描いていた」(『創業者・石橋正二郎』p27より)
石橋氏と兄は父親から「酒を飲むな、タバコものむな、碁も打つな、若い時の苦労は買ってでもしろ」という教育を受けて育っただけに、仕事を任されて以来、ともに「朝早くから夜遅くまで、日曜も祭日もなく一生懸命に働いた」といいます。
やがて兄が陸軍に入営、店を1人で任されるようになった石橋氏は、徒弟7、8人を使ってシャツやもも引き、足袋など何でも仕立てて、店に陳列して売る商売では規模の大きな同業者に太刀打ちできないと考え、思い切った改革に着手しています。
一つは雑多なものをつくるのではなく、最も見込みのある足袋に商品を絞り込むこと、もう一つは無給が常識の徒弟に給料を払って労働時間も短縮することでした。
給料を払えばそれだけ経費はかさみますが、代わりに働いている人たちのモチベーションが上がり、生産性も上がるというのが石橋氏の考え方でした。この改革に当初、父親は反対しましたが、石橋氏の見込み通りに生産性は向上、1909年には年間23万3000足を売り上げるほどになっています。
苦闘の時代を経て地下足袋、ゴム靴で大ヒット、大躍進の時代へ
地方の足袋屋としてはかなりの成功と言えますが、「全国的に発展するような事業」を目指して石橋氏はさらなる改革を進めています。当時、九州にはまだ一台もなかった自動車を購入、「志まやたび」の幕で飾った「馬のない馬車」を使って大宣伝を行い、知名度を上げる一方で、1913年には日本で初の試みと言える「20銭均一アサヒ足袋」を発売、大ヒットを飛ばしています。
当時、足袋の価格は足の大きさ(文数)や紺、白といった品種によって異なっていました。そのため、取引には大変な手間がかかっていましたが、石橋氏は市電の均一料金にヒントを得て業界の常識を打ち破る大改革を行いました。
20銭という価格は利益を抑えての価格でしたが、「ちっぽけな仕事を飛躍させるには思い切ったことをやらねばならぬ」(『私の履歴書』p8)という思いからの英断となりました。
ここから企業としての飛躍が始まりますが、仕事を任された17歳から均一足袋の発売にこぎつけた24歳までを石橋氏は「苦闘の連続であった」と振り返る一方で、こうも話しています。
「17歳から24歳までの8年間は苦闘の連続であった。今振り返ってみると、私はその苦労によって練磨され、また人情の機微を知り、商売の実地を学ぶことができ、その体験が今日の役に立っていると思う」(『創業者・石橋正二郎』p32)
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