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- 2016/10/05 掲載
リコー 創業者 市村清氏、年商2兆円企業に押し上げたのは「2代目の人選」にあり
連載:企業立志伝
「富士山」ではなく「八ヶ岳」的な企業グループ
年 | できごと |
1936 | 理化学興業から独立、理研感光紙を設立 |
1938 | 商号を理研光学に変更 |
1945 | 三愛商事(1948年に三愛に)設立 |
1946 | 創業者・市村清氏が社長就任 |
1947 | 憲法記念館を明治記念館として再興 |
1950 | カメラのリコーフレックス IIIが大ヒット |
1952 | 三愛石油を設立 |
1955 | 卓上複写機「リコピー101」を発売 |
1963 | 理研光学から社名をリコーに変更 |
1965 | 電子リコピーBS-1が大ヒット「リコーの救世主」に |
1968 | 市村清氏死去 |
1969 | 舘林三喜男氏が社長就任 |
1975 | デミング賞受賞。 |
1975 | 日本で初めて「オフィス・オートメーション」を提唱 |
(出典:リコーHP『リコーの歩み』」と「三愛会『市村清年譜』をもとに筆者作成) |
リコーグループはほかの企業との間に業種的なつながりはありません。それだけに、よく事情を知らない人は「なぜこれほど多岐にわたるグループ構成になっているのだろうか」と不思議に思うかもしれません。
唯一共通するのは、すべてがリコーの創業者・市村清氏(1900年~1968年)が手がけた企業だということです。
市村氏はリコーの前身・理研感光紙(1936年設立、のちに理研光学工業、リコーに変更)の創業者です。戦前の日本を代表する財閥の一つ、理研コンツェルンの総帥・大河内正敏氏に卓越した販売力と経営力を認められた、昭和初期から中期を代表する経営者の一人・市村氏は先見性と多彩な人的ネットワークを持っていた関係上、コカ・コーラやリース業といった、それまで日本になかったビジネスを持ち込む実業家でした。
明治記念館のように有力者に頼まれて事業に関わることもよくありました。そこから生まれたのがこのような多種多様な企業群です。企業の多角化、異業種への進出は失敗に終わることも多いのですが、リコー三愛グループの場合は、リコーが多角化をしたというよりは、稀代の天才・市村氏だからこそ成功した独特の経営形態と言えます。
「経営の神様」松下幸之助氏は自身の企業グループが電機事業という一つに特化した、言わば「富士山」的な経営形態であるのに対し、市村氏の多種多様な企業グループをいくつもの山が連なる「八ヶ岳」的な経営形態と評していました。
グループ間に業種的なつながりがないだけに、リコー三愛グループは今も昔もゆるやかな連帯となっていますが、その中心には「人を愛し 国を愛し 勤めを愛す」という「三愛精神」があり、この三愛精神がグループの精神的支柱と言えます。
抜群の成績を上げることで独立へ
そこであらためて勉強の必要性を痛感した市村氏は銀行の本店への異動を機に中央大学専門部(夜間)に入学しますが、結核に罹ったことなどもあり、ここでも3年で中退しています。以来、市村氏は大陸での銀行勤務と獄中生活(のちに無罪)や保険不毛の地と呼ばれた熊本での保険の外交員生活などさまざまな苦労を重ねますが、転機は1933年に訪れます。
市村氏は九州で保険の販売を行うかたわら、理科学研究所が開発した感光紙の販売を行っていましたが、抜群の成績を上げたことで、大河内氏より理化学興業の感光紙部長として招聘されたのです。
そしてここでの活躍が認められ、1942年に理研光学工業は理研から独立しますが、その3年後に終戦を迎えます。
その際、市村氏は戦後はサービス業が最適であるとして三愛商事(のちの三愛)を設立、1946年8月、銀座4丁目の角に大理石を随所に使った新店舗をオープン、食料品を「適正価格」で販売することで大変な人気を博することになりました。
【次ページ】リコーが長く繁栄し続けている理由とは
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