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- 2018/01/15 掲載
オムロン創業者・立石一真に学ぶ、自動改札機やATMの世界初を実現した「決定的瞬間」
連載:企業立志伝
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大成功を収めた祖父亡きあとに訪れた窮乏生活
初孫として生まれた立石氏には乳母が2人も付くなど大切に育てられましたが、やり手の祖父が亡くなった後は一気に家運が傾いたといいます。
祖父の死後、商売人というよりも芸術家肌の父親が間もなく盃屋をやめたことで、立石家は「祖父の遺産を少しずつ食いつぶしていく窮乏生活」(『私の履歴書』p301)となりますが、さらに追い打ちをかけたのが1908年、父親が42歳の若さで亡くなったことです。
当時小学校1年生だった立石氏は祖母、母、弟二人という一家5人の「戸主」として否応なしに一家の柱にならざるを得なくなったのです。
人が何を言おうと、自分自身の値打ちは変わらない
父親を亡くし無収入となった立石家では、母親が下宿屋を始めるなどしますが、たいした収入にはならず、「いつも貧乏に追いかけられる母」(「私の履歴書」p304)を見かねた立石氏は小学校5年の頃から新聞配達を開始、もらった給金はすべて母親に渡しています。「僕は早よう働いて、母ば助けないかんけん」(「できませんと云うな」p158)と考える立石氏は小学校を卒業すると同時に働くつもりでしたが、その才能を惜しむ教師たちの勧めもあり、「苦学」する覚悟で地元の名門・熊本中学、熊本高等工業学校へと進んでいます。
上級学校に進んでからも立石氏は新聞配達を続けながら勉学に励むことになりますが、時には貧しさゆえにあらぬ疑いをかけられ、陰口をたたかれたこともあります。そしてこんな「悟り」を開いたといいます。
「人にほめられて有頂天になり、人にくさされて憂鬱になるなんておよそナンセンス。そんなことぐらいで自分自身の値打ちが急に変わるものではない」(「私の履歴書」p312)
企業経営には毀誉褒貶がつきものですが、その中でも自分を失うことなく信じた道を進むことができたのは、このときの「悟り」のおかげと立石氏は振り返っています。
今の仕事に懸命に打ち込め、必ず役に立つときがくる
それでも月収は長期出張に伴う宿泊料などを含めて175円と、当時の課長を上回るものでした。血気盛んな若者が大金を手にするとろくなことはありません。同僚ら3人と大金を手に豪遊を繰り返した結果、「公金を使いこんでいるのでは」という噂が流れ、「山を降りて帰庁せよ」という命令とともに4人そろって辞職となってしまいました。1年4カ月の役人生活でした。
役人生活への未練はなかった立石氏ですが、失業の身では母親への30円の仕送りができなくなります。しばらくして同級生の紹介で配電盤などの製作を行う井上電機に就職、検査室主任として再出発をすることになりました。
井上電機は社員200人余りの中小企業です。技術のほとんどは常務が1人で開発するという会社でしたが、立石氏は新しい製品づくりのために何度も徹夜して試行錯誤を重ねた結果、新型の継電器を考案。実用新案を取り、東京電灯から大量の注文を受けるという成果を上げています。
この時の成果がのちの独立へとつながるわけですが、当時を振り返って立石氏はオムロンの若い社員にこうアドバイスするようになったといいます。
「いつも自分の受け持ちの仕事に打ち込め。功利的な思惑がなくても将来必ず何かに役立つときがある」(「私の履歴書」p329)
最初は苦労をしても、一度「創造」の醍醐味を覚えると、人ははずみがついて次々と発明・考案ができるようになります。まずは今の仕事に懸命に打ち込むことこそが成長、そして将来につながるというのが立石氏の経験からの学びです。
【次ページ】できない言い訳をするな、やる気になれば何としてもできる
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