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コロナ禍でアマゾンを初めECサービスを提供する会社が世界中で売り上げを大きく伸ばしました。実店舗の多くが苦境に立たされる中、米国を中心に売り上げ、利益ともにアマゾンに負けないほどの好調を維持しているのが「ウォルマート」です。小売業界の世界ランキングで22年以上連続1位に君臨する「世界最大の小売業者」はいかにして生まれたのか、同社の基礎を築いた創業者のサム・ウォルトン氏の生涯を振り返りながらひも解きます。
1ドルの価値を知った子ども時代
サム・ウォルトン氏(フルネームはサミュエル・ムーア・ウォルトン)は1918年、オクラホマ州のキングフィッシャーで父トーマス・ギブソン・ウォルトンと母ナン・ウォルトンの子どもとして生まれています。
ウォルトン氏によると、自分たちが貧乏だと思ったことはなかったものの、決して余裕のある生活を送っていたわけではなく、「1ドルでも多く稼ぐために何でもした」(『私のウォルマート商法』p36)といいます。
子ども時代には朝早く起きて牛の乳をしぼり、母親が瓶に詰めた牛乳を放課後、お客さまの所に配達をしたり、あるいは中学から大学まで新聞配達を続けたりなど家計を助けるために一生懸命働いています。のちに同氏はこう振り返っています。
「1ドルを稼ぐのにどれほど苦労しなければならないかも、稼いだ時にはどれほど誇らしいかも学んでいた」(『私のウォルマート商法』p36)
「誰に対しても友達のように」周囲が認める人懐こさ
「1ドルの価値が骨身に染みて分かっていた」ウォルトン氏は高校時代、大学時代とも自分でお金を稼ぎ、衣服はもちろん、授業料や食費、サークルの費用やデート代などすべて自分で賄っています。
母親は教育熱心で、両親とも援助はしたかったようですが、当時は世界恐慌後の不況期であり、ウォルトン家にその余裕はありませんでした。それでもウォルトン氏は高校時代から続けていた新聞配達で助手を雇って部数を増やすなど成功をおさめ、大学時代には4,000~5,000ドルもの年収を得ていたといいます。そんなウォルトン氏について学生時代の友人はこう話しています。
「ウォルトンはどんな時でも楽天的だった。いつもとびきりの笑顔で、誰に対しても自分の友達のように振る舞っていた」(『アメリカン・ドリームの軌跡』p342)
「1ドルの価値を知る」ウォルトン氏のこうした「人懐こさ」がその後の成功につながったと言われています。
苦労して育てた店を地主に奪われる
大学を卒業したウォルトン氏はJCペニー社に1年半ほど勤務したのち、兵役につきます。ですが、「除隊後は小売業をやりたい」と考えていたウォルトン氏は、軍隊最後の任務地ソルトレイクシティで図書館に通い、小売業に関するあらゆる本を読みあさったほか、地元の百貨店などに通って研究も重ねるなど十分な準備を行っています。
1945年、兵役を終えたウォルトン氏は義理の父親から借りた2万ドルと自己資金の5,000ドルを投じてアーカンソー州ニューポートにあったバラエティーストア「ベン・フランクリン」のフランチャイズ店を購入します。当時この店はまったく繁盛しておらず、損失も出ていましたが、ウォルトン氏はニューポートの町もこの店も将来性は十分だと自信満々でした。
最初はごく小さな店でしたが、生来の勤勉さと社交性、「誰からでも学べる」(『私のウォルマート商法』p64)という勉強熱心さのおかげで5年後には年商25万ドル、純利益3万~4万ドルの店にしただけでなく、近隣6州のベン・フランクリンの中でトップ、バラエティーストアとしてはアーカンソー州1位の規模に成長させたのです。
ところが、その成功を横取りしようとしたのが店の地主です。ウォルトン氏が結んだ店の借地契約には契約更新の権利が含まれておらず、地主は契約更新を拒否したのです。狙いは繁盛する店を自分たちのものにすることでした。
5年間の苦労が水の泡となったウォルトン氏は「まさか自分がこんな目に遭うとは」と不運を嘆きますが、黙って町を出ていくほかはありませんでした。当時をこう振り返っています。
「この時期は、私の実業家人生で最悪の時だった。すべてやるべきことはやったのに、町から追い出されるのだ。しかし私はいつも、トラブルとは自分に突き付けられた挑戦状だと考えており、この時もそう考えた」(『私のウォルマート商法』p76)
ウォルトン氏はアーカンソー州ベントンビルという人口3,000人の田舎町に移り、再起をかけます。心血を注いだ店は失ったものの、幸いウォルトン氏の手元には店を売却して得た5万ドルと、経営のノウハウがありました。年齢的にもまだ32歳と若かったウォルトン氏にとって必要なのは新しい店舗だけでした。
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