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近年、スポーツ界では多くの日本人アスリートが世界を舞台に活躍しています。なかでも、層の厚さという点で群を抜いている競技が「バドミントン」です。男子の桃田 賢斗選手や女子の奥原 希望選手、山口 茜選手、さらには女子ダブルスのフクヒロペアやナガマツペア、タカマツペアなどが世界ランキングの上位を占めています。そんなバドミントンの隆盛に大きな貢献をしてきたのが、スポーツ用品メーカーのヨネックスです。転んでは何度も起き上がり、その度に大きく成長し「越後の雪だるま」とも呼ばれた創業者・米山 稔氏は、2019年11月、95歳の天寿を全うされました。ヨネックスを世界的企業へと導いた米山氏の軌跡をたどります。
集金に回った少年時代
米山氏は1924年、父・源一郎、母・キクの長男として新潟県長岡市で生まれています。生家は、元は宿場町にあり代々宿屋を営んでいましたが、鉄道の開通によって人々の往来がなくなり、父親の代に宿屋を廃業、げたの製造を始めています。
しかし、げたを製造して販売しても、家計が苦しく出稼ぎが当たり前の時代、代金の回収は思うようにいかなかったようです。米山氏も小学校2、3年生の頃から集金に回っては断られるという経験をしたといいます。
代金が回収できなければ借金ばかりがかさみます。問屋が材料の代金を請求に来るたびに、支払いを延ばしてくれるよう頭を下げる両親を見て育った米山氏は、尋常高等小学校を卒業すると同時に外に働きに出ることを決意します。
父親からは地元の郵便局への就職を勧められましたが、それでは多額の借金を返すことはできません。「古里を飛び出し、ばりばり働きたい」(『負けてたまるか』p21)というのが米山氏の決意でした。
生涯の原動力となった特攻経験と沖縄戦
1941年、名古屋の陸軍工廠(こうしょう)に徴用された米山氏は、最初は小銃の銃身をつくる作業に従事します。しかし、いずれは家業の木工の技術を生かして何か事業を始めたいと考えるようになり、直属の上司に「木工の腕が磨ける職場への配置換えを直訴」(『負けてたまるか』p25)したそうです。戦時中のことです。
当時は上司への直訴など言語道断でした。ですが、米山氏はいくら断られても2度、3度と訴え続け、最後には工場長の陸軍大尉にまで願い出ることで、木工技術を磨くことのできる銃床づくりの職場への移動がかなっています。
職場には最先端の木工の機械がそろっており、米山氏は後のラケットづくりに大いに役立つ技術を身に付けることができました。ですが、戦争は長引き、いつまでも工廠(こうしょう)勤務を続けるわけにはいかないと思った米山氏は1944年、陸軍に入隊します。
そこに待ち受けていたのは、船舶特攻隊と呼ばれる、モーターボートに爆雷を積んで米軍の輸送船に突っ込む特攻任務であり、沖縄での激しい戦闘でした。
まさに生死の境をさまよう、極限の精神状態での戦いだったといいます。米山氏は、ヨネックス創業後、苦難が襲うたびに沖縄戦のことを思い出したそうです。
「あのとき本当は死んでいる身だ。やるだけやって駄目なら仕方がない」(『負けてたまるか』p33)
この思いが、幾度も米山氏を再起へと導きました。やがて戦争は終わり、米山氏は4カ月余りの捕虜生活を経て新潟に帰郷、再出発をすることとなります。
足をすくわれた「いっぱしの青年実業家」気取り
米山氏は当初、再び外に出ることを考えていたそうです。しかし、母親から「まず地元でしっかり仕事をし、信用を得ることが大事だ」(『負けてたまるか』p35)と諭され、家業を継ぐことを決めています。
その決意をより強くしてくれたのが、戦時中に父親が亡くなり生活が苦しくなっても母親が守り通した「木工の機械」でした。親戚に「モーターを売れば米二俵になる」と言われた母親は、こう言って断ったそうです。
「稔は必ず帰ってくる。この一台のモーターは稔が木工の仕事をするのに絶対必要だ。これだけは手放せない」(『負けてたまるか』p35)
1951年、米山氏は米山製作所を設立。最初は、酒のタンクなどに使う醸造用の木栓をつくっていましたが、しばらくして漁網の浮きの製造に乗り出しました。
事業は大成功。「いっぱしの青年実業家気取り」(『負けてたまるか』p39)の米山氏は、26歳で村会議員に当選するなど、地元の名士となります。ですが、1953年に危機を迎えます。例年なら受注の増える秋になっても、浮きの注文がまったくこなかったのです。
慌てた米山氏は、取引先のある北海道を訪ねます。漁網が木綿からナイロン製に変わったことで、浮きも桐製からプラスチックへと変わったため、米山氏がつくる木製の浮きは不要になったのでした。
時代の変化に気づかなかった米山氏の完全な失敗でした。世の中の動きに注意していれば、プラスチックの技術などを学んだはずが、米山氏は自分の成功に閉じこもり、すでに世の中が必要としていない木製の浮きをずっとつくり続けていたのです。結果、残ったのは在庫の山でした。
「世の中で何が売れているのか、自分の目で見るしかない」(『負けてたまるか』p45)
村会議員を途中で辞職した米山氏は、全国行脚に出掛けます。そこで出会ったのがブームとなりつつあったバドミントンのラケット製造でした。
ラケットの製造なら得意の木工技術を生かすことができます。地元にはラケットに適した木材も豊富にあります。
そこで、米山氏はバドミントン用品メーカーのサンバタに売り込みをかけ、OEM供給によるラケット製造に乗り出すこととなったのです。1957年のことでした。
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