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総合スポーツ用品メーカーとして日本一、世界的にも高いブランド力を誇るアシックス。「スポーツの経験と言えば、中学時代の剣道と柔道ぐらい」と、スポーツとはほとんど縁のなかった鬼塚喜八郎氏がスポーツシューズづくりに乗り出したのはなぜだったのでしょうか。
「男の約束」を守るために養子に入る
鬼塚喜八郎氏(旧姓は坂口、のち養子に入り鬼塚姓に)は1918年、鳥取県鳥取市松上で農業を営む坂口伝太郎・かめの三男三女の末っ子として生まれています。坂口家はもとは小作人でしたが、祖父の代に地主となった村有数の素封家であり、鬼塚氏も小学校卒業後は県でただ一つの県立中学、鳥取一中に進学しています。
1931年に満州事変が勃発するなど日本が太平洋戦争へと走り出す時代、鬼塚氏も陸軍士官学校への進学を目指します。四年生時に患った肋膜炎の療養生活を経て、1939年、徴兵検査で甲種合格、3カ月の訓練を経て幹部候補生の試験にも合格、見習い士官から将校となっています。
そんな鬼塚氏は、懇意にしていた上田中尉がビルマ戦線に赴く直前、ある頼みごとをされました。上田中尉は国内に残る鬼塚氏に「神戸国防婦人会会長の鬼塚福弥・清一夫妻と養子縁組をしているので、自分が帰るまで2人の面倒を見て欲しい。もし俺が帰れなかったら夫婦の死に水を取ってやってくれ」(「私の履歴書」p333)と依頼したのです。鬼塚氏はその約束を守り、戦争中には夫婦の面倒を見ましたが、上田中尉は戦死し、戻ってくることはかないませんでした。
やがて終戦を迎え、鬼塚氏は一旦は郷里の鳥取に帰省しますが、上田中尉との約束を果たすために神戸行きを決断します。鬼塚家の養子となってまで、夫婦の面倒を見ることにしたのです。
とはいえ、敗戦後の日本で職を探すことは簡単ではありませんでした。1946年、「鬼塚喜八郎」として再出発した鬼塚氏は伝手を頼って西井商事というできたばかりの会社に就職しますが、その会社の実態は闇屋でした。進駐軍専用のビアホールを経営し、仕入れたビールの王冠を付け替えて闇市に横流しするだけでなく、経営者は私欲の追求に明け暮れる会社でした。
やがて鬼塚氏は常務となりますが、「闇商売を手伝って世の中には裏も表もあることが骨身にしみて分かった」(「私の履歴書」p339)と、同社を3年で退社、新たな道を探ることになりました。
このままの日本では、死んでいった戦友に申し訳ない
闇商売との決別を決めた鬼塚氏が戦友で兵庫県教育委員会の保健体育課長・堀公平氏に今後のことを相談したところ、堀氏から「君は靴屋になれ。青少年がスポーツに打ち込めるようないい靴をつくれ」とアドバイスを受けました。その理由は「若者をまっすぐに育てるためには、スポーツを盛んにすることが最も有効だ」(「私の履歴書」p339)というものでした。
終戦後の神戸で身寄りのない青少年たちが非行に走る姿を思い出した鬼塚氏は、こう考えました。
「新しい日本はいったいどうなるのか。何のために多くの戦友が戦争で死んでいったのか。このままではあの死んでいった戦友たちに申し訳ない。これからの新しい日本の建設のために、俺はスポーツによって青少年を立派に育てることに一生を捧げよう」(「ニッポンの社長」より)
この使命を見つけた瞬間、それまでのモヤモヤが一気に晴れたような気持ちがしたといいます。事業を興すにあたっては金儲けや私利私欲が動機ではダメで、「社会のために事業を興すから、人々も応援し、社会もあなたを成功させる」(「ニッポンの社長」より)と鬼塚氏は語っています。
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