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- 2018/08/13 掲載
日清創業者・安藤百福氏が、「47歳無一文」から人生逆転できたワケ
連載:企業立志伝
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「人の役に立つこと」を求めて
1910年、当時日本の植民地だった台湾の台南県東石郡朴子街で生まれた安藤氏は幼いころに両親を亡くし、兄2人、妹1人とともに祖父母に引き取られています。繊維や織物を扱う呉服屋を営む祖父母のしつけは厳しく、「物心つく頃には、掃除から洗濯、炊事、雑用まで何でも言いつけられ」ましたが、安藤氏によると、「両親がいなくてもまっとうに育つことができたのは、祖父母の厳しいしつけのたまものと感謝している」(『魔法のラーメン発明物語』p19)と言います。
学校を卒業した安藤氏は一時期、県の郡守(知事)に勧められて図書館の司書になります。しかし、幼いころからそろばんが好きで、祖父の仕事を手伝いながら「商売は面白いな」と思っていた安藤氏は1932年、台北市に資本金19万円で「東洋莫大小(めりやす)」を創業、独立を果たしています。
扱っていたのはありきたりのメリヤス(機械編みの布地)ではなく、安藤氏自ら編み方や糸の太さまで指定、日本から仕入れた特注品ばかりです。商品は飛ぶように売れ、若くして財産を築いた安藤氏は第二次世界大戦下でも、幻灯機(スライド映写機の前進)の製造、炭焼き、バラック住宅の製造など次々と事業を起こしてことごとく成功させています。
なぜこれほど多くの事業を成功させることができたのでしょうか?同氏はこう話しています。
「何か人の役に立つことはないかと周辺を見渡すと事業のヒントはいくらでも見つかった」(『魔法のラーメン発明物語』p26)
苦難の連続、47歳で全財産を失う
まず戦時中、国から支給された資材の横流しの疑いから(最終的に無罪釈放)憲兵隊から拘束を受け、45日間に渡る激しい拷問を経験しています。
そして1948年には脱税容疑でGHQに逮捕され、巣鴨プリズンに収監(1950年12月に無罪釈放)、1957年には理事長を務めていた信用組合の倒産により築き上げてきたほぼすべての財産を失うという不幸を経験しています。
当時、安藤氏は47歳です。この年齢でこれほどの不幸を経験すれば、ほとんどの人は再起への希望を失うものです。しかし安藤氏はここから「チキンラーメン」の開発に着手。見事に成功しただけでなく、「世界の食を変える」ほどの革命を成し遂げることになったのです。
「失ったのは財産だけではないか」
信用組合の倒産によりすべてを失った安藤氏は、事業の整理を終えて、池田市の自宅にいったんは引きこもりますが、しばらくするとこう考えるようになりました。「失ったのは財産だけではないか。その分だけ経験が血や肉となって身についた」(『魔法のラーメン発明物語』p56)
財産を失い、再出発を考える中で、当時の記憶がよみがえり「家庭でお湯があればすぐ食べられるラーメンをつくりたい」と真剣に考えるようになったのです。1957年、自宅の庭につくった10平方メートルほどの小屋に中古の製麺機や、直径1メートルの中華鍋を持ち込んだ安藤氏は朝は5時から、夜は1時、2時まで1年間にも及ぶラーメンとの格闘を開始することになりました。
誕生、チキンラーメン
あらゆる挑戦は試行錯誤の連続です。つくっては捨て、つくっては捨てという気の遠くなるような作業をくり返しながら、安藤氏は気づきます。「食品の開発は、たった一つしかない絶妙なバランスを発見するまで、これでもかこれでもかと追及し続ける仕事」(『魔法のラーメン開発物語』p59)だと。「わずかな光を頼りに、進み続ける日々」を経て、安藤氏は瞬間油熱乾燥法という製法を開発、世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」の開発に成功することになりました。1958年、48歳の時です。
しかし、初めて世に出る製品はいつだって販売に苦労します。ましてや当時のチキンラーメンの価格は35円と、6円のうどん玉や25円の乾麺にくらべても割高でした。
当初、食品問屋はどこも扱ってくれませんでした。しかし阪急百貨店での試食販売などを通じてそのおいしさを知った消費者の声に押され、小売店や食品問屋が取引を開始。翌59年には爆発的なヒットとなりました。
さらにしばらくすると三菱商事や伊藤忠商事などと特約代理店契約を締結。チキンラーメンは一気に販路を拡大することになりました。
【次ページ】市場調査ではなく自分の目で見つけた勝機
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