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今ではイノベーションが起きにくいといわれる日本ですが、かつてイノベーションによって世界的大企業へと躍進した日本企業は少なくありません。その一つが世界初の小型純電気計算機「カシオ14-A」や世界初のパーソナル電卓「カシオミニ」など多くの「日本初」「世界初」によってさまざまな分野でイノベーションを起こしたカシオ計算機(以下「カシオ」)です。同社を率いたのは有名な「樫尾四兄弟」の長男・樫尾忠雄氏でした。
これからの職人は腕だけではダメだ
1917年、父・茂、母・キヨノの長男として高知県南国市に生まれた樫尾忠雄氏(以下、忠雄氏)はわずか5歳の時に両親と妹の親子4人で東京に移り住んでいます。農業以外に焼き物などの副業を行っても食べるのが精いっぱいという暮らしの中、東京で大工として働いていた叔父からの「東京に出てきて大工の仕事を手伝ってくれないか」という誘いを受けての上京でした。
上京してしばらくは大工仕事を手伝っていた父・茂氏ですが、その後は左官の仕事、建築材料問屋の配達の仕事などを懸命にこなします。しかし、一家の暮らしは決して楽なものではありませんでした。そんな両親を見て育った忠雄氏は、尋常高等小学校を卒業するとためらいなく就職の道を選びました。「いよいよ、自分で働いて両親を助けられる」(『兄弟がいて』p28)と思って、とてもうれしかったといいます。
1931年、14歳の忠雄氏は治工具の製造会社・榎本製作所に旋盤工見習いとして就職しますが、それは忠雄氏にとって「これはおれの天職だ」(『兄弟がいて』p29)と本気で思えるほどのものでした。
実際、覚えが早く、腕も良かった忠雄氏ですが、そんな氏を見込んだ工場主の榎本博史氏は、「学校の月謝分まで給料を上げるから、働きながら専門学校へ行って勉強しないか」と勧めたことが転機となりました。「これからの職人は腕だけではダメだ」(『兄弟がいて』p33)というのが榎本氏の考えでした。
榎本氏の勧めもあって早稲田の工手学校に進んだ忠雄氏は昼は仕事、夜は勉強の毎日を送りながら技術と知識の両方を身に付けていくことになりますが、この時期は忠雄氏にとって大変ではあっても、「本当に充実した時代」だったといいます。
とはいえ、家は狭く、苦しい生活の中で「もう少しまともな生活がしたい」(『兄弟がいて』p37)というのも忠雄氏や弟たちの共通の願いでもありました。その後、日本バルブ、日本タイプライター精機製作所を経て、独立する決意を固めた忠雄氏は1942年、吉岡製作所の分工場という形での独立を果たすことになりました。25歳の時です。
下請け仕事をやめ、ヒット商品の開発へ
物不足の時代だけに仕事はいくらでもありましたが、空襲によって工場を失った忠雄氏は終戦後、東京都三鷹市に引っ越して鍋や釜、電熱器や自転車の発電ランプなどをつくりながら生計を維持、1946年4月、樫尾製作所を設立、正真正銘の独立を果たすことになりました。
当初は下請け仕事の一方で電動のうどん製造機や、ぽんせんべいをつくる機械などを製造販売していましたが、忙しい割には「あまりうだつが上がらない」(『兄弟がいて』p78)時代でした。そんな忠雄氏を気の毒に思ったのでしょうか、逓信省の東京電気通信工務局(NTTの前身)に勤務している弟の俊雄氏から「俺が何か考えるから、それをつくればいい」(『兄弟がいて』p78)という提案がありました。
いつまでも下請け仕事をしているだけでは限界があります。せっかくの出世コースを捨てて町工場に入るという俊雄氏の申し出を最初は断った忠雄氏ですが熱意に押されて一緒に歩むことを決意しました。
そうして、二人三脚で生み出した最初のヒット商品が「指輪パイプ」でした。いつもタバコを身近に置いておきたいというニーズに応えたことで指輪パイプは大ヒット、ここで得た資金がのちの計算機開発で大いに役に立つことになりました。
「時代遅れ」の計算機
ただ、どんなヒット商品にも寿命があります。次に何をつくろうかと考えていた忠雄氏と俊雄氏は1949年、銀座で開かれた第一回ビジネスショーで電動計算機に出会い、計算機の開発を決意します。
当時の計算機は電子回路ではなく歯車で動くもの。海外ではモーターで歯車を回すものができていましたが、当時の日本の加工技術には限界があり、手回し式の計算機しかつくられていませんでした。しかも電動計算機は遅いうえに、すさまじい音がしました。
日本にあるのは輸入品ばかりで、値段が高く、大企業にしか買えないと知った忠雄氏と俊雄氏は自分たちでつくることを決意。1954年12月、小型純電気式計算機(ソレノイド式)の試作機を完成しました。
昼は生活のための下請け仕事をして、そのお金を使って夜に研究をするという生活は苦しく、何度も挫折しそうになったといいますが、誰かが「もうやめよう」と言い出しても、4人兄弟の誰かが「もう一回だけやってみよう」と励ますことで挑戦を続けられたといいます。
そうしてようやく完成した試作品でしたが、計算機を扱っている商社に持ち込むと連乗機能がない計算機は「時代遅れだ」と酷評されてしまいました。最先端の計算機がどの程度の機能を持っているかを知らなかったための失敗でしたが、当時、日本の大企業も同様の挑戦をしては敗退する、という難しい挑戦でもあったのです。
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