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ホンダ(本田技研工業)の創業者・本田宗一郎氏の経営者としての人気は、戦後に誕生して成長した企業の中でも群を抜いています。その技術力で浜松の町工場を世界企業へと育て上げ、オートバイとF1で共に世界を制覇。数々の名語録・名エピソードでも知られる本田氏の生涯を改めて振り返ります。
18歳で学んだ「車を直すことは、人の心を直すこと」
本田氏は1906年、静岡県磐田郡光明村(現浜松市天龍区)で鍛冶屋を営む父儀平、母みかの長男として生まれています。家は貧しかったものの、小学校2年生のころから父親の鍛冶屋仕事を手伝うほどものづくりが好きで、好奇心も旺盛だった本田氏。
当時珍しかったT型フォードのあとを追いかけて、車体から地面にしたたるオイルの匂いにうっとりしたかと思うと、別の日は浜松練兵場で開催されたアート・スミスによる曲芸飛行を見るために20キロの道を自転車に三角乗りをして駆けだしていたといいます。この時に抱いた飛行機への憧れが、のちのホンダジェットへとつながっています。
1922年、二俣尋常高等小学校を卒業した本田氏は早くから関心のあった自動車修理の技術を身に付けようと東京のアート商会に入社しますが、最初の半年は社長の子どもの子守ばかりというでっち修行で「本田の背中に(赤ん坊のおしっこで)また世界地図が書いてあるぞ」と兄弟子たちからからかわれるような日々だったといいます。
しかし半年後、念願の自動車修理ができるようになった時の喜びは忘れがたく、本田氏は「あの時の苦労と喜びを思い出せば、どんな苦しさも消し飛んでしまう。長い目で見れば人生にはムダがない」(『夢を力に』p25)と振り返っています。
やがて本格的に自動車修理の技術を身に付けた本田氏は生涯忘れられない経験をします。18歳になり、主人から盛岡に1人で出張して消防自動車を修理するように命じられた本田氏。到着した彼を見た現地の人たちは「こんな小僧に何ができるんだ」とがっかりして、ひどい扱いをします。
ところが、いざ修理を始めた本田氏は問題のエンジンを見事に直しただけでなく、頼まれていなかった放水系までも修理。周りで心配そうに見ていた人の度肝を抜いたのです。喜んだ現地の人たちは昼間から宴会を開いて本田氏を上座に座らせて接待をしただけでなく、旅館の最も上等な部屋を用意したといいます。そんな人々を見て本田氏はこう考えるようになりました。
「車を修理する時は車だけ直してもダメだ。乗り手の心も修理してあげなくては」(『こうすれば人生はもっと面白くなる』p133)
1928年、本田氏は主人からただ1人だけのれん分けを許されて、浜松にアート商会の支店を設立。丁寧な修理ぶりで評判を呼びますが、そこには盛岡での経験が影響していると言われています。
バタバタの成功を経てオートバイの製造へ
アート商会浜松支店を設立した時の本田氏はまだ22歳の若者です。当初は「あんな若造に何が」と仕事の依頼がきませんでしたが、よそで直せなかった車さえ修理する本田氏の腕の良さもあり、店は大繁盛。その上、本田氏は当時使われていた木製のスポークに代わる鋳物製のスポークをつくって特許をとるなど発明の才を発揮。25歳のころには早くも50人の工員を抱えるほどの成功を収めています。
本田氏は1937年、「修理屋は修理屋だけのことしかない。いくら修理がうまくても東京や米国から頼みに来るわけがない」(『夢を力に』p46)と東海精機を設立し、ピストンリングの製造に乗り出しています。ところが、修理では天才的な腕を持つ本田氏でもピストンリングは思うようにはいきません。鋳物の基礎知識の不足を思い知った本田氏は浜松高工の聴講生として懸命に学んだ結果、ようやく量産化に成功し、トヨタとの取引にも成功しています。
しかし、1945年の三河地震によって工場が倒壊、本田氏は持ち株のすべてを豊田自動織機に売却し、1年間の休養に入っています。戦後の混乱期、慌てることなく何をすればいいかを見極めるためでした。
そうやって手にした大金を元に「何にも仙人(何もしない人)」(『夢を力に』p54)を続けた本田氏が次に目を付けたのが戦争中に軍が使用していた小型エンジンを自転車に付けたモーターバイク、通称「バタバタ」の製造です。
交通機関が混乱していた時代、バタバタは大評判となり、飛ぶように売れました。やがて小型エンジンの在庫がなくなったことで、本田氏はエンジンの製造にも着手。月に1000台つくるほどの成果を出しています。これがのちにホンダのオートバイエンジンへとつながっていくことになるのです。
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