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日本が国を挙げて西洋に追いつこうと必死になっていた時代、外国人の指導を受けながら、外国の技術を導入してものづくりに励む企業が多い中、日本人の手による自前の技術にとことんこだわることで成長を遂げたのが、いまや連結売上高10兆円を超える企業にまで成長した日立製作所です。が、成功までにはいやというほどの失敗を経験しています。その失敗を乗り越えさせたのは創業者・小平浪平氏の「日本で使う機械はわれわれの手でつくらねばならない」という揺らぐことのない信念でした。
東京帝国大学で受けた日本工業は「幼稚」の衝撃
1874年、栃木県都賀郡合戦場で小平惣八とチヨの二男として生まれた小平浪平(おだいら・なみへい)氏は幼い頃から毎日、「四書五経」の素読をさせられ、長男・儀平氏も東京の親類に預けてまで勉強させるほど、教育熱心な家庭で育っています。
やがて栃木高等小学校を卒業した小平氏は儀平氏に促されて上京、第一高等中学校の受験を目指すことになりますが、1888年12月に父親が48歳の若さで死去してしまいます。当時、小平家には7人の子どもがおり、父親の事業の借金も残されていました。小平氏も兄とともに学業を断念することを考えましたが、兄が長男の義務として学問の道を諦めたことで、小平氏は兄と母親の支援によって学生生活を続けることになりました。
父親の死に衝撃を受けた小平氏はそれまで以上に熱心に勉強するようになり、第一高等中学校を経て東京帝国大学(現東京大学)電気工学科に入学。欧米諸国に比べて日本の工業が「幼稚」であることを知り、こんな決意を口にしています。
「わが国の工業が振わなければ、これを振わせるのはわが任務であり、決して会社の番人に終わるべきものではないことを深く感じた」(『技術王国日立をつくった男』p88)
1900年、大学を卒業した小平氏は藤田組小坂鉱山に電気主任技術者として入社、発電所づくりに携わったのち、広島水力電気や東京電燈(現・東京電力)を経て、1906年に久原鉱業所日立鉱山に工作課長として入社しています。
鉱山の開発には多くの動力を必要とします。小平氏の仕事はそのための発電所の建設や、鉱山で使用する機械・電気設備の設計・設置などでしたが、こうした現場で使われる機械設備のすべてが当時は外国製でした。
この現状に対して小平氏は「何とかしなければ」という思いを持っていました。ある時、その思いを大学の同級生で、渋沢栄一氏のおい、渋沢元治氏にこう打ち明けています。
「今僕が従事している仕事は外国から機械器具を輸入し、それぞれの製造会社から技術者を雇い入れ、われわれが据付けをやっている。あちらから先生が来て実地に教えるのを覚えるのは難しいことではなく、誰にでもできる。しかし僕はこれらの機械器具を日本でつくれるようにしなくてはならぬと思う」(『技術王国日立をつくった男』p26)
日本を急いで近代化するためには外国の優れた機械器具や技術に頼るのは仕方のないことでした。国産化には大変な労力と時間がかかります。そう語る渋沢氏に対し、小平氏は「やせても枯れても自分でつくってみたい」と己の決意を変えることはありませんでした。
外国人の手引きに頼らず独立独歩の道を行く
強い決意を胸に、久原鉱業所日立鉱山に入社した小平氏は、鉱山用の発電所の建設などに一方、丸太の掘立小屋(のちに「日立製作所創業小屋」と呼ばれます)で電気機械の修理と並行して、自分たちの手で発電機の製作に取り組むようになりました。
もちろん簡単ではありませんでした。小平氏によると、自分たちが発電機をつくり始めた頃は、「つくってもつくってもモーターは回らない」状態で、「もうつくるのはやめようかと悲観した」というほどの苦労をしています。
理由は「スケッチ流」、つまり「外国人の手引きに頼る」のでは、自力での開発に取り組んだからです。結果、たくさんの失敗をすることになりますが、「自ら苦しんで失敗しつつ覚える」というのが小平氏の考え方であり、それがのちの日立にも引き継がれていくことになりました。
苦労の末に1910年には日本初の5馬力モーターを完成、同年11月に日立製作所を創業しています。とはいえ、その性能は外国製に比べて「まだまだ」のレベルであり、久原鉱業所の日立製作所への信用は低く、相次ぐ故障に「機械製作をやめろ」と非難されることもたびたびでした。
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