- 会員限定
- 2021/05/26 掲載
「2位は死だ」、リクルート創業者・江副浩正が令和に“再評価”される理由
連載:企業立志伝
ハングリー精神を育んだ「飢餓と貧しさ」
江副 浩正氏は1936年、父・良之、母・マス子の長男として大阪市で生まれています。病にかかった母親が1歳の時に生家に帰ったため、江副氏に母親の記憶はなく、住み込みのお手伝いさんに育てられています。中学の教師を務める父親は厳格な人でした。近所の子どもとのケンカに負けて泣きながら帰ると、「涙を流しながら家に帰る奴があるか。外に出て涙を拭いて入り直せ」(『かもめが翔んだ日』p11)と叱られるほどだったため、江副氏は親に心を開くことができなかったと語っています。
やがて第二次世界大戦が始まり、江副氏は祖父の家がある佐賀に疎開します。終戦から3カ月後、江副氏は大阪の父親の元に帰りますが、そこに待ち受けていたのは新しい母親と義理の弟、そしてもう1人の女性という何とも奇妙な、重苦しい生活でした。
生活も苦しく、小学校の健康診断で「栄養失調」と診断されたほどですが、当時の「飢餓と貧しさの体験が、私をハングリーな人間にしたと思う」(『かもめが翔んだ日』p24)と江副氏は振り返っています。
想像と違った東大、アルバイトに精を出す日々
生活は苦しかったものの、卒業生総代に選ばれるほど成績が良かった江副氏は、担任の勧めもあり、関西の名門・甲南中学に進学。甲南高校を経て1955年に東京大学に入学しています。しかし、高校時代に描いていた大学のイメージと実際の授業の落差は大きく、授業に興味を持てなくなった江副氏はあまり学校に行かなくなり、アルバイトに精を出すようになります。
週に2回の家庭教師を2つと、デパートの屋上でアドバルーン上げのアルバイトをしながら本を読み、映画を見る日々を過ごしていた大学2年生の6月、アルバイト委員会の掲示板に貼られていた「月収1万円/東京大学学生新聞会」の募集を見て応募、採用されます。まだ情報誌などなかった時代、就職活動もアルバイト探しも学校の掲示板や新聞の求人広告が頼りでした。
大卒の初任給が1万円をわずかに超える時代、月収1万円はあまりに魅力的でした。江副氏は財団法人東京大学新聞社の常務理事・天野 勝文氏からこう言われました。
「新聞は販売収入より広告収入が上回る時代になった。広告もニュースだ。明日から新聞を広告から読んで、東大新聞の広告を開拓してくれないか」(『かもめが翔んだ日』p41)
この言葉に感銘を受けた江副氏は早速、新聞に多くの広告を掲載していた映画館などに営業に行きますが、簡単にはいきません。月収1万円は過去に最も成績が良かった人の数字であり、成績が上がらなければ収入も増えません。江副氏は「辞めようか」とも考えますが、こう考えて踏みとどまったといいます。
「コミッションセールスマンで成績があげられなければ、経済的に弱者になる。そうはなりたくなかった」(『かもめが翔んだ日』p42)
困り果て、しかし考え続けていた江副氏はある日、大学で1枚の掲示を目にします。それがきっかけになり、大きな飛躍を遂げることになりました。
【次ページ】のちのリクルートにつながる「1枚の掲示」
関連コンテンツ
PR
PR
PR