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  • 2020/08/13 掲載

宅急便の開発者・小倉昌男は、なぜ「無理」と言われ続けても“実行”できたのか

連載:企業立志伝

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新型コロナウイルス感染拡大により「巣ごもり消費」の市場が大きく伸びました。ネット通販や出前など、家に居ながらの消費活動を支えてくれているのが宅配便です。今や宅配便サービスのない世界を想像するのは難しいほど、私たちの生活に欠かせないものとなりました。その宅配便サービスが日本で誕生したのは1976年のことです。当時は誰もが不可能と考えたサービスを考案し数々の規制と戦いながら今日につなげた、ヤマト運輸2代目社長で「宅急便」の開発者である小倉 昌男氏の人生を見ていきます。
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「宅急便」の開発者・小倉 昌男氏の人生をたどる
(写真:東洋経済/アフロ)

父・康臣が「大和運輸」創業

 小倉氏は1924年、大和運輸(現・ヤマト運輸)を創業した父・康臣と母・はなの次男として生まれています。父・康臣は、中学を中退してさまざまな職業に就いたのち、銀座などで車を引いて野菜を売り歩きながら資金を蓄え、1919年、30歳の時に貨物輸送の大和運輸を創業しています。

 幡代尋常小学校を経て7年制の東京高等学校(通称・東高)に進んだ小倉氏は、イギリスの名門パブリックスクール、イートン校を模範に「ジェントルマンの養成を目指した」(『経営はロマンだ』p40)生徒の自主性を重んじる校風の中、勉強よりもテニスや読書に熱中する生活を送っています。


 小倉氏によると「その後の人生を振り返ってみると、中学の選択が大きな岐路だった」(『経営はロマンだ』p36)と言うほど充実した7年間だったようです。

4年半に及ぶ休職と長期療養

 いずれ父親の会社を継ぐことになると考えていた小倉氏は、東京大学の経済学部商業科に進学します。しかし、時代は戦争真っただ中です。1944年10月、大学を休学して第一予備士官学校に入校した小倉氏は、8カ月の訓練を経て独立野砲兵第三十三大隊に配属されますが、間もなく終戦を迎え、東京大学に復学しています。

 軍隊では嫌な思い出が多かったようですが、資材が不足する中、下士官たちがあり合わせのもので炊事場や厠をつくるのを見て、「何でもできないことはない。やればできる」と肝に銘じたことが大きな収穫だったといいます。

 大学を卒業した小倉氏は1948年、大和運輸に入社。駐留米軍関係の仕事に従事しますが、数カ月後に肺結核を患い、4年半に及ぶ休職と長期療養を余儀なくされています。

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(Photo/Getty Images)
 その間、小倉氏は「社会のために何の役にも立たないのに、一体自分は何のために生きているのだろう」(『経営はロマンだ』p74)と悩み、心が苦しく、死を考えたこともあったといいます。

 しかし、父親の紹介で救世軍の大佐(牧師)である一柳 猪太郎氏と出会ったことで救われ、退院から3年後に救世軍に入隊、クリスチャンになっています。

出向時代に学んだ、リーダーが示すべきこと

 病気から回復した小倉氏は、復職から8カ月後の1953年7月、大和運輸の子会社である静岡運輸に総務部長として出向します。小倉氏はここでとても貴重な経験をします。

 同社は業績も赤字続き、就業規則なども整備されていない会社でしたが、小倉氏は勉強しながらそれらを整えていきました。同時に、労働基準監督署から不良事業所としてにらまれるほどの交通事故の多さに悩まされ、改善に向けて取り組むことになりました。

 労働基準監督署の署長から「模範的な事業所」として紹介された木工の工場を訪ねると、そこには壁いっぱいに大きな文字で「安全第一、能率第二」と書いた紙が貼ってありました。工場の経営者によると、「安全も能率も追い求めるとどちらも中途半端になる。大切なのは『どちらが第一で、どちらが第二か』を示すことで、それで初めて安全が優先される」というのです。

 この話に感銘を受けた小倉氏は会社に帰るなり、「これからは『安全第一、営業第二』をモットーにして仕事をやる」(『経営学』p144)と宣言しました。「第二」がなくて「第一」ばかりでは、本当の「第一」がないということです。小倉氏は「安全こそすべてに優先する」ことを社内に徹底、労災事故は少しずつ減少へと向かい、営業の方もむしろ活発になっていったといいます。

 のちに小倉氏は宅急便を推進するにあたり、「集荷が第一、配達は第二」「サービスが先、利益は後」などの標語を掲げていますが、これらは静岡運輸での経験が生かされているといいます。

乗り遅れてしまった長距離輸送

 1956年、大和運輸に復帰した小倉氏は百貨店部長に就任します。当時、同社は創業初期からの得意先である三越をはじめとする多くの百貨店の配送業務を請け負っており、とても大切な役割でした。ところが、その頃の大和運輸の業績は下降線をたどっていました。

 理由は明白でした。戦後、日本のトラック運送事業では東京と大阪を結ぶ長距離輸送が主役となり始めていたにも関わらず、社長の康臣氏は「トラックの守備範囲は100キロ以内、それ以上の距離は鉄道の分野」という戦前からの常識に縛られ、長距離輸送への進出で遅れをとっていたのです。かつて「日本一のトラック会社」(『経営学』p24)と言われたほどの成功体験を持つがゆえに、時代の変化に対応できなかったのです。

 小倉氏にとって父親は偉大な経営者でしたが、同時に「成功体験のある人ほどそれにとらわれて失敗する」(『経営はロマンだ』p93)ことを学んだ経営者でもあります。

【次ページ】このままでは会社がつぶれる……「宅急便」を考案
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