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  • 2019/06/17 掲載

サントリー創業者がウイスキー事業立ち上げで示した、イノベーションの起こし方

連載:企業立志伝

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「サントリー」と言えば山崎ウイスキーの角瓶を想起する人も多いと思いますが、これは既存事業が好調だった時期に“あえて挑戦”したからこそ生まれた製品です。周りの反発が大きい難事業でしたが、見事、大成。さらにウイスキー事業が安定したら次はビール事業に取り組んだりと、ひたすら挑戦を続けてきました。その根底にあるのは、創業者の「やってみなはれ」精神でした。日本を代表する企業の源流を探る企業立志伝、第32回はサントリー創業者・鳥井信治郎氏に迫ります。
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「角瓶」「ジムビーム」「トリス」「メーカーズマーク」など、高い評価を得るサントリーのウイスキーブランド。その礎を築いた創業者の生涯を追う
(写真:つのだよしお/アフロ)


日本では売れなかったスペイン産ワインの教訓

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 鳥井氏は1879年、大阪で両替商(後に米屋)を営む父・忠兵衛、母・こまの次男として生まれています。小学校を卒業した鳥井氏は大阪商業学校へ進みますが、2年ほど在籍した後、13歳で大阪道修町の薬種問屋・小西儀助商店にでっち奉公に出ています。

 商人の家に生まれ、将来、商人になるはずの鳥井氏にとっては当たり前の道でしたが、まだ10代半ばの鳥井氏にとってでっち修業はつらいもので、後年「14、5歳の自分には相当の苦労であった」(「美酒一代」p16)と振り返っています。

 しかし、そんな苦労の一方で、小西儀助商店が薬のほかにぶどう酒やブランデー、ウイスキーといった洋酒も扱っており、ここで洋酒の知識を身に付けたこと、また薬種問屋の仕事に欠くことのできない調合の技術を身に付けたことは、鳥井氏にとって大きな財産になったといわれています。

 その後、絵具染料問屋の小西勘之助商店に移った鳥井氏は、都合7年間の修業時代を経て、1899年に「鳥井商店」を開業、念願の独立を果たすことになりました。独立当初、鳥井商店が扱っていたのはぶどう酒や缶詰類でしたが、当時のぶどう酒はアルコールに砂糖や各種香料を混ぜてぶどう酒に近い風味を出したものでした。それでも中国向け輸出が好調なこともあり、店は順調に発展しました。

 セレースというスペイン人が営むセレース兄弟商会に出入りするようになり、本場のポートワインの味を知ったことで転機が訪れます。その味に魅せられ、本場のポートワインを日本国内向けに販売できないかと考えた鳥井氏は当初、セレース商会からスペイン産の優良ぶどう酒を買い入れ、瓶詰にして売り出します。しかし、当時の日本人の味覚には合わずまったく売れませんでした。

 大量の在庫を前に困り果てた鳥井氏ですが、日本ではやはりぶどう酒は甘くなくてはダメだと考え直し、「日本人の味覚に合ったぶどう酒」をつくるべく、試行錯誤を繰り返しました。その結果つくり上げたのが、サントリーの土台を築き上げたといわれる「赤玉ポートワイン」です。

赤玉ポートワインを大ヒット商品にした、宣伝の力

 1907年、「寿屋洋酒店」として「赤玉ポートワイン」を本格的に売り出すことになった鳥井氏が最も力を入れたのが宣伝でした。その年、同社は初めて新聞広告を出していますが、当時としてはそれだけでも珍しいことであり、ライバル企業の経営者たちは「たかがぶどう酒を売り出すくらいで新聞広告などしたら一編で潰れてしまう」(「美酒一代」p23)と嘲笑したほどです。しかし鳥井氏は一切気にしませんでした。こう振り返っています。

「私は若いころから洋酒をつくってきた。いくら良い品をつくっても、ただつくるばかりでは売れない。そこで新聞に広告することを始めたが、これは大いに効果があった。洋酒がここまで飲まれるようになった裏には、広告というものの果たした役割の大きさを見逃すことができない」(「美酒一代」p25)

 当時、米1升が10銭の時代に、赤玉ポートワインは40銭です。そのため鳥井氏は、赤玉ポートワインの「薬用ぶどう酒」としての効能を強調するために、当時の帝国大学医学博士たちの協力も得て、商品の安全性や滋養などの効能を新聞広告でうたったほか、「美味 滋養 ぶどう酒 赤玉ポートワイン」と書いたホーロー看板を日本中の小売店に配り、さらにオペラ劇団の「赤玉楽劇団」を結成するなど、ありとあらゆる手段を使って赤玉ポートワインを広めています。

 結果、1921年には、赤玉ポートワインは国内ワイン市場の60%を占めるほどのガリバー商品へと成長しています。こうした同社の宣伝戦略を牽引したのが、森永ミルクキャラメルの宣伝部長として辣腕(らつわん)を振るった片岡敏郎氏です。

 1919年、寿屋に入社した片岡氏は、前述したような斬新な宣伝活動を次々と立案展開しますが、中でも最も有名なのが1923年に発表された「日本初のヌードポスター」といわれる赤玉ポートワインのポスターです。モデルは赤玉楽劇団のプリマドンナ 松島栄美子さんです。現代のヌードと比べるとおとなしいものではありますが、それでも当時としては画期的なものであり、ドイツの世界ポスター品評会で賞を取るなど、作品としても高い評価を得ています。

 このとき、鳥井氏は片岡氏を信頼して全面的に任せていますが、松島さんが持つワインの色にはとことんこだわり、また印刷会社もワインの色をきれいに出すために社員をアメリカに派遣して勉強させたともいわれるほどのこだわりを見せています。

 ポスターの成功などもあり、赤玉ポートワインの知名度はさらに向上、寿屋の業績も急成長しますが、そんな好調の中で鳥井氏はついに長年胸に秘めていた計画の実行を決意します。日本で初めての本格的なウイスキーの生産です。

「荒唐無稽」と言われたウイスキー事業に挑む

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サントリーのあゆみ
 赤玉ポートワインがいかに売れているとはいえ、“一本足”では危うさもあります。そのため鳥井氏はこの時期、インスタント紅茶のはしりとも言える「レチラップ」や、喫煙家用歯磨き「スモカ」、今のハイボールにあたる「トリスウイスタン」、「トリスソース」などを発売。さらに1928年にはビール事業にも進出していますが、最も力を入れたのは国産ウイスキーの生産でした。

 しかし、それは当時としてはあまりに無謀な挑戦でした。鳥井氏の次男で、後にサントリー社長となる佐治敬三氏(中学入学時から母方の遠戚である佐治姓を名乗る)がこう話しています。

「当時スコットランド以外の土地でウイスキーをつくるなどという企ては、およそ荒唐無稽のことに属していた」(「美酒一代」p89)

 ウイスキーはつくってすぐに売れるわけではなく、長年寝かせる必要がある上、その出来不出来も貯蔵を待って初めて分かります。そのため長年の貯蔵の資金が必要なほか、もし出来が悪ければすべてがムダに終わる、大変難しいものです。

 しかも、世界各国の醸造家が幾度も挑戦しながらスコットランド以外では成功していないものを日本で挑戦するというのですから、誰もが不可能と考えるのは当然のことでした。いくら赤玉ポートワインが好調で、鳥井氏がいかにワンマンであろうとも、周りの役員がみんな反対するのも仕方のないことでした。

【次ページ】「人生はとどのつまり賭けや。やってみなはれ」
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