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現在、フランチャイズを含め世界38カ国に309店舗を持つ世界最大の家具チェーン「イケア」をゼロからつくり上げたのがイングヴァル・カンプラード氏です。今や年間の来店者数が8億人とも言われるイケア。同社ほど創業者の個性が強烈に浸透している企業はないのではないか、とも評されています。世界企業イケアを一代でつくり上げたカンプラード氏の人生をたどると、同社が多くの消費者に支持される理由が見えてきました。
5歳で商売を始める
カンプラード氏は1926年、スウェーデンのエルムタリッドという辺ぴな農場で父フェオドールと母ベルタの長男として生まれています。エルムタリッド農場の名前の語尾につく「リッド」は「開墾」を意味し、農場のあるスモーランドはスウェーデンのスコットランドと呼ばれるほど貧しい地方でした。
幸いカンプラード家は祖母ファニイのがんばりもあり、「私の子ども時代はとても幸せだった。優しく守られた環境の中で育ち、辛いことは何一つしなくてよかった」(『IKEA』p26)とカンプラード氏自身が回想しているように、苦しい生活を送ることはありませんでしたが、それでも家にお金があまりないことだけは子どもなりに理解していたようです。
幼いカンプラード氏は「父さんを助けてあげられたらなあ」と思い、5歳の頃から商売を始めています。遊びではなく“本当の”商売です。5歳の時、マッチを100箱買い込んだカンプラード氏は周りの大人たちに1箱ずつ売って回ったのを皮切りに、クリスマスカードや壁飾り、鉛筆を売りさばき、11歳の時には種物商から種を買い付けて、近所の農民に売るという商売まで行っています。
商売は寄宿制の実業学校でも続けます。寄宿舎のベッドの下に大きな段ボール箱を置き、仕入れた品物は何でも商売の種にするのがカンプラード氏でした。
17歳でイケアを設立
商売は順調で「金儲けをしたい」と早くから願っていたカンプラード氏は、学校を卒業する直前、まだ17歳の時に会社を設立し、事業届も提出しています。その時につけた名前が「IKEA」です。イングヴァル・カンプラードの頭文字の「IK」、エルムタリッド農場の「E」、居住区のアグナリッド村の「A」で「IKEA」となります。
1943年、高等商業学校に進んだカンプラード氏は授業で学んだ「商品を調達するのに一番いいのは外国から直接輸入すること」をすぐに実行します。パリの会社から万年筆500本を輸入したカンプラード氏は、列車に乗って南スウェーデン中を売り歩いたほか、新聞に広告を掲載して注文した人に郵送するという通信販売まで始めています。
こうした商売は就職し、兵役に服してからも続きますが、そこで経験したいくつかの失敗を通してカンプラード氏は「価格に関してはしっかりと交渉する」「契約は口約束ではなく必ず文書で契約をする」といった大切なことを学んでいます。
始まりは通信販売、信頼を得ながらどう儲けるか
当時、カンプラード氏は万年筆や裁縫道具、さらには時計など商売になるなら何でも扱っていましたが、ある時、アームレスチェアを扱ったところ大変よく売れたことで、1948年からは社員を1人雇って家具の通信販売に本格的に乗り出しています。
しかし、家具の通信販売業界の競争は激しく、各社が値下げ競争を続けた結果、品質を犠牲にした家具が売られるようになり、消費者からの苦情がイケアにも多数寄せられたのです。カンプラード氏はこう考えます。
「イケアが死ぬか、それとも顧客の信頼を得て、なお儲けを生み出すやり方を見つけ出すか。残された道は2つに1つだ」(『IKEA』p56)
家具の通信販売を行う会社が多くある場合、たいていの消費者はカタログなどを見比べて一番安いものを買います。しかし、送られてきた家具の品質がひどければ、返品制度のない時代、消費者は激怒して2度とその会社からは買わなくなります。これでは家具の通信販売そのものが信用されなくなります。
この問題を解決するためにカンプラード氏が考えたのが「通信販売と家具の展示場を組み合わせる」という当時としては画期的な手法でした。消費者はカタログを見て気に入った家具があれば、実際に展示場に行ってその家具の品質を確認します。納得したら家具を注文して、家具はメーカーの工場から購入者の家に届けられるという仕組みです。
1953年、カンプラード氏はかなりの都会で鉄道の便も良いエルムフルトに家具の展示場を設置します。それが成功してイケアの売り上げは急激に上昇、50年代半ばには50万部ものカタログを発行するほどの成功を収めることになったのです。
しかし、ここでも問題が生じます。通信販売で工場から家具を送る場合、傷ついたり破損したりする家具がとても多かったのです。
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