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  • 2019/10/23 掲載

“ノーベル化学賞”を支えた「旭化成」はどう誕生した?創業者・野口遵の人生とは

連載:企業立志伝

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2019年のノーベル化学賞は、リチウムイオン電池の開発に大きな貢献をした吉野彰氏(旭化成名誉フェロー)に授与されました。吉野氏を支えた「旭化成」の創業者で、一代で「日窒コンツェルン」を築き上げた野口遵(したがう)氏も吉野氏同様に、新規事業に挑み苦しみ、成功をつかみ取った人物です。一介の技術者から身を起こし、日本や朝鮮半島などを舞台に自ら発電設備を建設、多くの化学工業を興した「化学工業の父」の生涯をたどっていきます。
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2019年ノーベル化学賞に輝いた、旭化成名誉フェロー・吉野彰氏。
吉野氏を支えた「旭化成」はどのように誕生したのか
(写真:毎日新聞社/アフロ)


エリートコースを嫌い「放浪技術者」として生きる

 野口氏は1873年、石川県金沢市で旧加賀藩士・野口之布(ゆきのぶ)の長男として生まれています。名前の「遵」を野口氏本人は「じゅん」と呼んでいましたが、本当の呼び名は「したがう」となります。

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(Photo/Getty Images)
 しかし、子どもの頃から並外れたいたずら者で、あまりの乱暴な振る舞いによって高校を退学されるほどのけんか好き。

 常にお山の大将でなければ気が済まない性格で、子どもの頃から人に「したがった」ことはないと言われています。

 決して勉強家ではなかったものの、理数系科目が得意だった野口氏は帝国大学工科大学の電気工学科に入学。

 1896年に卒業しますが、同級生の多くが官庁や大企業に就職する中、福島県の地方会社・郡山電燈に入社、という当時のエリートとしては異例のコースを選んでいます。当時の野口氏を知る友人たちはこう評しています。

「切れ長の眼の鋭い、いが栗頭の精悍な男で、万事を力で押していく風だった。2歩進んで1歩考えるという手ぬるいことはしない。無類の酒好きで人情家の半面、負けず嫌いで頭を下げることを嫌った」(『20世紀日本の経済人』Ⅱp129)

「俺の名は一向に他人に従わない遵(したがう)と呼ぶんだ」(『20世紀日本の経済人』Ⅱp129)と言い切る野口氏には、安定した大企業や官庁に入って上司に仕えながら出世していくことは、およそ不可能なことでした。

 かといって小さな企業に入ってお山の大将になるつもりもなかったようです。郡山電燈で沼上発電所の建設などに従事した後、ドイツのシーメンスの東京支社、長野県の安曇電気の電源開発や江之島電鉄の設立計画に関わるなど、「放浪技術者」の時代を経て電気技術の新知識を次々と吸収していきます。

 さらにこの時期、野口氏は発電所が抱えていた余剰電力の問題を解決するべく、電気を大量に消費する化学工業を興すことも考えるようになったそうです。たとえ発電所を建設しても、そこでつくられる電力をすべて消費するほどの工業は、当時の日本には育っていなかったのです。

日本“初”のカーバイドの製造に成功

「電力を使って化学工業を」と考えていた野口氏に最初のチャンスが訪れます。

 野口氏の大学時代の後輩である藤山常一氏(宮城紡績電燈 主任技師)が三居沢(さんきょざわ)発電所の余剰電力を利用したカーバイド(炭化カルシウム)製造計画を立て、野口氏に技術指導を求めてきたのです。

 野口氏は、シーメンス時代にこのカーバイドの研究を行っていました。

 計画に賛同した野口氏は宮城紡績電燈常務らと三居沢カーバイド製造所を設立。日本初のカーバイドの製造に成功しています。

 1906年、鹿児島県にある3つの鉱山に電力を供給する発電所の建設を依頼された野口氏は、曽木電気株式会社を設立。800キロワットの出力を持つ発電所を建設しました。

 しかし、鉱山などが必要とする電力は半分程度であり、余剰電力をどうするかが問題でした。そこで野口氏は三居沢で成功していたカーバイドの製造に注目し、1908年に藤山氏らと共に日本カーバイド商会を設立。工場を隣の熊本県水俣に建設しました。


三井、古河の財閥を相手に特許獲得競争に勝利

 そしてちょうどこの時期、ドイツの化学者アドルフ・フランクとニコデム・カローの2人が、カーバイドに空気中の窒素を化合させて石炭窒素を製造する「フランク・カロー法」と呼ばれる製法を開発しています。

 この特許の獲得こそ、事業の成功に不可欠だと考えた野口氏は1908年4月、藤山氏と共にドイツへと向かいます。

 ライバルはあまりに強力でした。三井財閥は益田孝氏を、古河財閥は原敬氏という、後の政財界の大立者を交渉に送りこんできたそうです。

 一方、野口氏は特許の開発に資金援助を行っていたシーメンスの東京支社で働いた経験があり、かつ当時の所長が本社の要職に転じていたという強みを武器に、こう主張したそうです。

「三井は日本一の富豪だ。俺は貧乏だ。しかし、カーバイドを扱ってきた経験がある。明日からでもこの特許を実用化できる。三井がやるとすれば、まず発電所からつくらねばならぬ。特許だけ買ってもそれは死物だ。金が欲しいなら三井へ売れ。仕事本位なら俺にやらせろ」(『20世紀日本の経済人』Ⅱp130)

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野口遵氏のあゆみ
(参考:公益財団法人野口研究所HP「創業者 野口遵について」)
 当時、35歳の野口氏はこうして三井、古河の両財閥を相手に特許獲得競争に勝利したのです。

 しかし、そこには条件がありました。

 それは1909年中に工場を建設することと、三井の支援を受けるというものでした。資金面の信用が当時の野口氏にはまだなかったのです。

 三井の支援を受ければ、事業の主導権は三井が握ることになります。三井との交渉を決裂させた野口氏は三菱などに支援を要請します。さらに1908年に曽木電気、日本カーバイド商会を合併して社名を日本窒素肥料(現チッソ)と改称。石炭窒素、硫安(硫酸アンモニウム)の製造を開始することとなりました。

【次ページ】旭化成の誕生、「奇跡に近い」と称された朝鮮半島の発電設備と化学工場群
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