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  • 2019/03/12 掲載

ソニー創業者・井深大は「東芝のモルモット」批判にどう応えたのか

連載:企業立志伝

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戦後に躍進を遂げた大企業の代表と言えばかつてはソニーとホンダの2社を挙げることが一般的でした。もちろん今や両社とも堂々たる世界企業ですが、中でもソニーはアップルの創業者スティーブ・ジョブズさえも尊敬の念を持って見つめていた企業です。1946年、わずか20数名でスタートしたソニーはいかにして世界企業に昇りつめたのでしょうか。ソニー2人の創業者のうち天才技術者と呼ばれた井深大氏を中心に同社の歴史を見ていきます。


機械いじりに没頭した少年時代

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トランジスタ・ラジオを手に持つ、井深大氏
(写真:AP/アフロ)

 井深氏は1908年、栃木県にある古河工業日光精銅所の社宅で父・甫、母・さわの長男として生まれています。父親は東京高等工業の電気化学科出身の技術者でしたが、1911年に前年に雪道で滑り、カリエス(骨の病気)にかかったことが原因で亡くなっています。

 そのため一時は母子で愛知県の甫の実家に身を寄せますが、日本女子大学校出身の才女だった母親は1913年に井深氏を連れて上京。母校の日本女子大学校付属豊明幼稚園で教鞭(きょうべん)をとりながら井深氏を育てています。

 幼い井深氏に母親はいつも「お父さんは、夜中に起きて実験に出掛けられるような、研究熱心な方でしたよ」(『ソニー勝利の法則』p9)と言って聞かせていました。そのため、井深氏は幼い頃から自分も将来はエンジニアになるんだと思い込むようになったといいます。

 しかし、そんな母親との生活も長くは続きません。小学校2年生の時に母親が再婚、井深氏は母親と別れて再び父親の実家で暮らすようになったのです。

 とても優しい祖父母でしたが母親のいない寂しさは大きく、それを紛らわすためか井深氏の興味は科学へと向かいます。自転車のランプを分解したり、ベルと電池をつなぐ電線を長くしたらどうなるのかと興味の赴くままに実験を繰り返していました。

 やがて母親の再婚先に移った井深氏は日本一入学試験が難しいと言われていた神戸一中に入学します。しかし、彼は勉強そっちのけで機械いじりに没頭。高価な真空管を3本も使ったラジオを製作し、その性能でみんなを驚かせています。

 その後も井深氏はさまざまなものを発明し、早稲田大学時代に発明した「走るネオン」はパリ万国博覧会に出品され金賞を受賞しています。

 そんな才能を認められて大学卒業後、写真化学研究所に入社しますが、そこでは得意の研究開発をする仕事がほとんどなかったため、しばらくして日本光音工業に転職しています。

 井深氏の「いろいろなものを発明する能力」(『ソニー勝利の法則』p30)を高く評価した、日本光音工業社長の植村泰二氏は日本測定器を創業。井深氏を常務に据えて「これまで世の中になかった測定器をつくる」ことを目指します。

 井深氏の能力は軍部にもよく知られ、同社は軍からさまざまなものを受注します。その時に知り合ったのが、後にともにソニーを創業する盛田昭夫氏(海軍技術中尉)です。

 井深氏は13歳も若い盛田氏(当時、井深氏36歳、盛田氏23歳)について「こんなに洗練された人間が世の中にいるのか」と驚き、一方の盛田氏は、井深氏の「技術者としての見識の高さ」(『ソニー勝利の法則』p39)に大いに魅(ひ)かれたと言います。

 そんな2人は終戦後、再び出会うこととなります。

「良いものさえ作れば売れる」から「売れる良いものを作る」へ

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 終戦の年、井深氏が勤務していた日本測定器は解散。社員の多くは地方での自給自足の生活を望みますが、一方の井深氏は東京に出なければ情報収集で後れをとると考えて上京。知人のつてで、焼け残っていた日本橋白木屋の三階の事務所に「東京通信研究所」という看板を掲げました。

 ここで作っていたのが家庭にあるラジオに付けることで海外の短波放送を聞くことができる短波コンバーターです。これが、ニュースに飢えていた人々に大いにウケて活況を呈することになりました。

 そんな井深氏を訪ねてきたのが盛田氏です。

 盛田氏は愛知県で代々続く盛田合資会社に生まれ、幼いころから「お前は生まれた時から社長なんだ」と父親に言われ育ってきました。彼は電子工学に興味を持ち、大学でも物理学を専攻しています。戦後は大学の教授の勧めで学校の講師となり、いずれは父親の跡を継ぎの十五代目当主となるはずでした。

 しかしある日、井深氏の会社を紹介する記事を目にしたことで人生が一転。井深氏と共に会社を創業することになりました。

 1946年5月7日、総勢20数名の「東京通信工業(東通工)」は設立の日を迎えました。井深氏38歳、盛田氏25歳の時です。

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ソニーの歩み

 この時、井深氏が自ら書き上げたのが「真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設」(ソニーHPより)という一文で知られる「設立趣意書」です。そこには今は小さくとも「人のやらないことをやろう」「世界中を相手に仕事をしよう」という強い決意があふれていました。

 最初の成功は1950年に日本初のテープレコーダー「G型」を開発したことです。当初、井深氏も盛田氏も画期的な製品であり、良いものさえつくれば売れるはずだと高をくくっていましたが、価格も高く重すぎる製品は簡単には売れませんでした。テープレコーダーは、多くの人にとっては使い方も分からない製品だったのです。

 売るためにはその価値を分かってもらわなければならないし、買える値段であることが必要だと井深氏は気づきました。

 そこで小学校の理科の実験費用で買える5万円くらいの教育界向けの小型テープレコーダーを開発。テープレコーダーの使い方も併せて講演して回ることで普及に成功します。1951年10月の決算では売上1億2000万円、利益900万円を計上することができました。井深氏はこう驚嘆しました。

「新商品は開発するまでは大変だが、いったん成功すると何と強力なものになることか」(『ソニー勝利の法則』p187)

 しかし、どんなブームにも限界があります。この時、井深氏と盛田氏はこう考えました。

「マーケットは広いに越したことはない。日本だけでなく世界に広げてみせる」(『ソニー勝利の法則』p188)

 この思いを胸に渡米したことが「世界のソニー」へとつながったのです。

【次ページ】「ソニーは東芝のモルモット」という批判にどう答えたのか
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