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「舶来品に負けない国産品をいかにつくるか」「作り上げた国産品を輸出することで国のために外貨を稼ぐ」。明治から大正時代にかけて事業を興した起業家たちの多くが、そう思い描いていました。今やプリンター(複合機)やファクスなどでも知られるブラザー工業の歴史は、創業者・安井正義氏の「(舶来品ばかりの)ミシンを国産化したい、輸入産業を輸出産業に変えたい」という若き日の思いから始まっています。
10人兄弟の長男、家業はミシン修理だった
安井正義氏は1904年、名古屋市熱田区で父兼吉、母ともの長男として生まれています。六男四女の長男であり、のちに国産ミシンの開発を志したとき頼りにしたのが安井氏を含む10人の兄弟姉妹の労力だったために完成したミシンの商標に「ブラザー」と付けたことが「ブラザー工業」という社名につながっています。
父親は東京砲兵工廠(こうしょう・軍隊直属の軍需工場のこと)熱田兵器製造所で職長を務める技術者でしたが、1908年に退職、自宅に「安井ミシン商会」(ブラザー工業の前身)の看板を掲げて当時まだ珍しく高価だった舶来ミシンの修理を始めています。
自宅の六畳間を改造した小さな仕事場でのスタートでしたが、安定した職を捨て、腕ひとつで大家族を養うのは楽ではありません。しかも父親は病弱だったため、安井氏は9歳のころから仕事場に入って父親の仕事を手伝い、遊ぶ暇はおろか、学校も欠席ばかりという子ども時代を送っています。
それでも父親の厳しい指導のお陰で安井氏は「若いうちに一応まともな技術を身に付けることができた」(「私の履歴書」p14)といい、小学校を卒業した頃には父親に代わって店を切り盛りするほどになっています。数年後、自分の腕に自信を持ち始めた安井氏は新たな技術を身に付けたいと考えるようになります。
当時、安井ミシン商会に持ち込まれるミシンのほとんどはドイツ製でしたが、市場に広く出回っているのはアメリカのシンガー社のミシンでした。しかし、シンガーミシンは品質が良いうえにアフターサービスも整っており、安井ミシン商会にいてはシンガーの技術に触れることはできません。
そこで、安井氏は父親を説得して「店が暇な半年だけ」という条件で大阪の松原ミシン店に奉公に行くことに。その松原ミシン店で起こったある出来事が、安井氏に国産ミシンをつくる決意をさせることになりました。
「何も持たない17歳」の決意、ミシンを“輸入産業”から“輸出産業”へ
安井氏が大阪に出た1921年当時、日本で使われているミシンの9割以上がシンガー社(米)のミシンで、あとはドイツ製とイギリス製、まだ国産ミシンはなく、ミシンの部品をつくる会社があるだけでした。
安井氏は、部品では日本一と言われる東洋ミシン商会の社長・武藤鍬三郎氏に「こんなに大きな市場がありながら、なぜ日本では部品だけでミシンを生産できないのか」という疑問をぶつけました。
武藤氏は「ちっぽけなミシン店の若い奉公人」の安井氏に、「ミシンをつくるには150万円のお金が必要だ」とその難しさを教えましたが、その話を聞いて安井氏はこう考えました。
「金のない者はミシンをつくることができない。金持ちはもっと儲かる商売があるからミシンに手を出さない。とすれば、一体いつになったら国産ミシンは日の目を見るのか。何とかしてミシンを国産化したい、輸入産業を輸出産業に変えたい」(「私の履歴書」p18)
弱冠17歳、安井氏はまだ「何も持たない」若者でしたが、この時の決意を片時も忘れることはありませんでした。
国産ミシンを見据えた新事業がヒット
しばらくして名古屋に帰った安井氏は、以来、「どうすれば国産ミシンがつくれるか」ばかりを考えるようになります。確かに大規模な事業化を考えれば武藤氏の言う「150万円」の費用がかかりますが、安井氏が頭に描いていたのは「自分の手でミシンをつくる」ことでした。
その前提で考えた結果、はじき出した費用が「5万円」でしたが、もちろん当時の安井氏にそんなお金はありませんでした。
そこで、父親をあてにできない安井氏は兄弟10人の力を合わせれば「5万円の資本金に匹敵することができるのではないか」(「私の履歴書」p20)と考え、仕事に励むかたわら、熱田実業補習学校に通って技術の修得にも熱心に取り組みました。
ミシンなどの製品をつくるためには多くの工作機械が必要になります。1923年、安井氏は将来のミシン製作への応用と、資金づくりを兼ねて麦わら帽子の成型をする水圧機の製造に乗り出すことを考えます。
安井ミシン商会が修理を行うミシンのほとんどは麦わら帽子製造用の環縫いミシンです。修理を依頼する麦わら帽子の製造業者はミシンのほかに、縫い上がった麦わら帽子をぴんと伸ばす水圧機も必要としていました。
これなら安井ミシン商会にとってお得意様のいる商売でありリスクはありませんし、確実に売ることができます。安井氏の弟たちも販売や製造を手伝えるようになり、水圧機は「使いやすい」という評判を得てよく売れるようになりますが、1925年、病弱だった父親が死去。安井氏はいよいよ国産ミシンの製造に乗り出すことになります。
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