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  • 2020/01/24 掲載

今を生きるビジネスパーソンに贈る──ジョブズからのメッセージ

連載:企業立志伝

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2011年10月、56歳で亡くなったスティーブ・ジョブズ氏の功績は数多くあります。パーソナルコンピューターや携帯電話の世界だけでなく、音楽界、CGアニメ界でも時代を切り開いてきました。しかし、それ以上に大きかったのは何も持たない若者が「世界を変えられる」ことを実証してみせたことでした。イノベーションが起きにくいと言われている今こそ、数々のイノベーションを起こしたジョブズ氏に改めて学びたいと思います。日本を代表する企業の源流を探ってきた企業立志伝、第40回を迎える今回は日本を飛び出し、起業家スティーブ・ジョブズ氏の歩みを見ていきます。
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イノベーションは“才能以上に生き方で決まる”ことを教えてくれたジョブズ氏。名言とともに、その半生をたどる
(Photo/Getty Images)

父譲りの、ものづくりへの“こだわり”

 ジョブズ氏は1955年2月24日、シリア人の父親アブドルファッタ・ジャンダーリーと、アメリカ人の母親ジョアン・シーブルの子どもとして生まれています。共に23歳の大学院生でした。宗教上の問題などもあり、結婚も中絶もできなかったジョアンは、ジョブズ氏が生まれるとすぐにポール・ジョブズとクララの元に養子に出しています。

 小さい頃から自分が養子であることを知っていたジョブズ氏は、「自分は生まれた時に捨てられた」という喪失感から「自分探し」を続けるようになったという説もあります。ですが、ジョブズ氏自身は養父母のことを「2人は1000%僕の両親だ」と語り、「いつも自分は特別な存在だと感じていた。両親が大事に育ててくれたからだ」(『スティーブ・ジョブズ』Ⅰp32)と感謝の気持ちを言葉にしています。

 製品開発にあたり、ジョブズ氏は誰も気にしない細部にまでこだわることで知られています。

「偉大な大工は、見えなくてもキャビネットの後にちゃちな木材を使ったりしない」(『スティーブ・ジョブズ名語録』p216)

 こうしたこだわりには、機械修理などを得意とした父・ポールの影響があったとジョブズ氏自身認めています。

教育には人生を変える力がある

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(Photo/Getty Images)
 両親に大事に育てられたジョブズ氏ですが、幼少期はいたずらばかりする問題児でもありました。

 そんなジョブズ氏の隠れた才能を見抜いたのが、小学校4年生の時の担任イモージン・ヒル先生です。ヒル先生は、さまざまな方法を使ってジョブズ氏に勉強を教え、おかげでジョブズ氏は飛び級をするほどの優秀な生徒となっています。

 当時についてジョブズ氏は、「ヒル先生に教わった1年間ほど、学問的な知識を詰め込んだ時期はほかにない」と感謝の念を表しています。

「人間のチャンスは平等であるべきだと信じている。平等なチャンスとは、何よりもすぐれた教育だと思う」(『ジョブズ・ウェイ』p197)

 ハイスクールへと進んだジョブズ氏は、後に共にアップルを創業する友人スティーブ・ウォズニアック氏と知り合い、2人で電話がタダでかけられる装置「ブルーボックス」をつくって仲間に大量に販売しています。

 これは明らかな違法行為であるため、危ない目にもあっていますが、この時の経験を通して2人は、「ウォズニアックのエンジニアリング力とジョブズのビジョンで何ができるのか何となく分かった」と振り返っています。

いつか点と点が結びつく

 ジョブズ氏は1972年、名門のリード大学に進みますが、わずか半年で退学。しかし、しばらくは学内の寮にとどまり、気に入った授業だけをタダで受講しています。その1つがカリグラフィ(西洋書道)の授業です。そこで学んだ字体などの知識がマッキントッシュの美しいマルチフォントに結実することになったと、後に語っています。

 当時、ジョブズ氏は「いつか役に立つ」と思って授業を受けていたわけではなかったようですが、そんなムダに見えることもやがて何かとつながるという経験を通して、このような言葉を残しています。

「現在はとりとめのない点であっても、やがて何らかの点と結びつくと信じなくてはならない。信じること、それが世界を一変させるのです」(『1分間スティーブ・ジョブズ』p187)

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(Photo/Getty Images)
 リード大学でどっぷりとヒッピー文化に漬かったジョブズ氏は地元に帰り、ヒッピー姿のまま、米国のゲーム会社であるアタリに就職。ドイツへの出張を条件に、導師を求めインドを放浪する旅に出ています。しかし、インドにはジョブズ氏が求めていたものはなく、インドの導師よりもエジソンの方が世界に貢献したのではと考えるようになったそうです。

自分たちでつくって売ろう

 ちょうどその頃、世界初のパーソナルコンピューターと言えるコンピューターキットのアルテア8800が登場します。コンピューターが好きな人々が集まるホームブリュー・コンピューター・クラブに参加していたジョブズ氏は、アルテア8800を上回るものを作れると考えたそうです。

 ウォズニアック氏がつくり上げたアップルⅠを見て、「自分たちでつくって売ろう」と提案。1976年4月、2人でアップル・コンピューター(以下、アップル)を設立することになりました。

 この時、2人は大金持ちになろうなどと思っていたわけではありません。たしかにジョブズ氏は、ウォズニアック氏よりは大きな野心を持っていました。ウォズニアック氏の心を動かしたのは、ジョブズ氏のこの言葉でした。

「お金は損するかもしれないけれど、自分の会社が持てるよ。自分の会社が持てる一生に一度のチャンスだ」(『アップルを創った怪物』p234)

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アップルとスティーブ・ジョブズ氏の歩み
 とはいえ、ものを作って売るにはお金が必要です。当時彼らは、車と電卓を売ってつくった1,000ドルしか持っていませんでした。そんな会社が、コンピューターショップのはしりを経営していたポール・テレル氏からアップルⅠを50台、計2万5,000ドルもの注文を受けたのです。ジョブズ氏の厚かましいほどの営業力のたまものでしたが、肝心の部品を買うお金がありませんでした。しかし、そんなことであきらめるジョブズ氏ではありません。

 大手の部品業者を訪問し、後払いで部品を手に入れます。そして自宅のガレージでアップルⅠを組み立てて無事に納品。その年だけで150台を販売しています。

【次ページ】お金で買いたいものなんて、すぐに尽きる
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