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今日でこそ日本は豊かな食文化を確立していますが、100年あまり前の日本では西洋料理はまだ珍しく、西洋野菜などもほとんどつくられていませんでした。そんな時代、トマトなどの西洋野菜の栽培やトマトソース、トマトケチャップなどの製造に挑戦したのがカゴメの創業者・蟹江一太郎氏です。蟹江氏はいわゆる6次産業の先駆者でもあります。
小学校を3年で中退、肉体労働に励んだ子ども時代
蟹江氏は1875年、現在の愛知県東海市で父・武八、母・やすの長男として生まれています。生家は佐野といい、18歳の時に蟹江家の婿養子となっています。
農家の長男が家督を継がずに他家に婿入りするというのは当時としては珍しいことですが、それには理由があります。
勤勉な両親の下で幸せな子ども時代を送っていた蟹江氏ですが、1882年に母親が急死したため、幼い弟の面倒を見ながら父親を助けて野良仕事にも出なければならなくなったのです。
やがて9歳になった蟹江氏は自ら申し出て小学校を3年で退学、農業に精を出したのち、他の村人同様に東海道本線の敷設工事などの手伝いに出掛けるようになりました。まだ幼い蟹江氏にとってはかなりの重労働ですが、小さい頃から野良仕事で鍛えていたため特に嫌だとも苦痛だとも感じなかったといいます。
当時の農家は貧しく、鉄道工事は重労働ではあっても日当がもらえる、割のいい仕事でしたが、それでも生活は楽ではありませんでした。さらに追い打ちをかけたのが1889年の暴風雨と、1891年の濃尾地震です。
幸い蟹江氏の家は被災をまぬがれることができましたが、生活は苦しくなる一方で蟹江氏は昼は畑仕事、夜は夜なべで仕事に励むなど懸命に働きました。
そんな蟹江氏を見て、村人は「一太郎はいい若い衆になった」(『食を創造した男たち』p7)と感心していましたが、そんな評判が伝わったのでしょう、隣村の蟹江家から一人娘のさくの婿にという要望が佐野家に伝えられました。
蟹江家は1町3反歩の田畑のほかに養蚕やみかんの栽培も行う、近隣ではかなり大きな農家であり、父親の甚之助氏は学問も身につけた進歩的な人物として知られていました。
当時の蟹江氏は真面目な働き者であり、それを見込まれての婿入りでしたが、義父の甚之助氏、そしてのちに登場する西山中尉から「農家の未来」について教えられたことが、その後のカゴメの創業につながっていくことになったのです。
農家の現状への危機感が、西洋野菜への挑戦を促す
甚之助氏は、婿となった蟹江氏にこう諭しました。
「一太郎、日進月歩の今日、百姓だからといって安閑としていてはいかん。これからの農家は、よくよく考えてやってゆかないと、だんだん落ち目になってゆく。そう考えたからわしはみかんの栽培を始めたわけだが、これからは荒地を開墾して1坪でも畑を増やすとともに、野菜や果樹の栽培に力を入れることだ。米や麦だけに頼っている時代はもう過ぎたよ」(『蟹江一太郎』p49)
それは、当時としては先進的な考え方でした。
やがて甚之助氏の勧めもあって仕事のかたわら私塾にも通うようになった蟹江氏ですが、20歳の時に名古屋の第3師団に入隊。その軍隊生活の3年目に出会った西山中尉から、その後の人生を変える話を聞くことになりました。将校との昼食の席で、西山中尉は蟹江氏にこんな趣旨の話をしました。
「これからの農業は、よくよく考えてやらんと暮らしは難しくなるばかりだ。どこの農家でも米や麦、大根や芋、人参ばかりつくっていたのではダメだ。人のやらんものを狙わなければいかん。西洋野菜などいいぞ。時代に応じた農業をやる。そうでないと農業は衰微するばかりじゃないか」(『蟹江一太郎』p60)
この言葉が蟹江氏にとっては大きな啓示になりました。西山中尉は蟹江氏ひとりにこの話をしたわけではありません。
しかし、どんなアイデアも聞き手の意識によって捉え方は違ってくるものです。多くの農村出身の若者にとって西山中尉の話はどこか遠い世界の話だったかもしれません。しかし、甚之助氏の影響もあり「変わらなければ農家は生き残れない」という危機感を持っていた蟹江氏にとっては「すぐにやるべきもの」に思えたのです。
除隊後、蟹江家がやっている農業と、西山中尉が言う新しい農業について時間をかけて検討した蟹江氏は養蚕に必要な桑の栽培が不振であることを理由に甚之助氏に「桑ではなく西洋野菜を手掛けてみてはどうでしょう」と提案しました。
思いがけない提案に甚之助氏は販売のめどはあるのかなどいくつかの質問をしますが、いずれにも蟹江氏がしっかりと答えるのを見て、「これは思い付きではないな」と確信、「やってみようじゃないか」と賛同しました。
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