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  • 2019/05/07 掲載

渋沢栄一が認めなかった「身勝手」、日本資本主義の父が大事にした信念とは

連載:企業立志伝

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新しい元号「令和」が発表されて数日後、2024年から1万円札の顔が福沢諭吉氏から渋沢栄一氏に代わることが発表されました。本連載ではこれまで30の企業の創業の物語を取り上げてきましたが、これら企業が創業し大きく飛躍する土壌を築いた人物こそが、生涯で約500もの企業の創業や経営に関わり「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢氏です。埼玉の農村に生まれた彼がいかにしてそう呼ばれるまでになったのか、その生涯を見ていくことにします。

学問と剣に励み、商才も発揮した少年時代

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1900年(当時60歳)ごろに撮られたとされる渋沢栄一氏。
(写真:Heritage Image/アフロ)
 渋沢氏は1840年2月、現在の埼玉県深谷市血洗島に父・渋沢市郎右衛門、母・エイの長男として生まれました。幼名は「栄二郎」、後に「栄一郎」「篤太夫」「篤太郎」を名乗っています。

 父親は麦を作り藍を作り、養蚕の営みをすることに精を出す一方で、近隣で作られた藍も買い入れ、それを染料の一種である藍玉に製造して紺屋に販売する商売にも注力。それまで村内で中以下だった家を村内2番目の資産家にまで引き上げるほど商才にたけていました。

 長男の渋沢氏にかける期待は大きく、渋沢氏は幼いころから親戚の漢学者・尾高惇忠氏のもとに通って多くの書物を読み学ぶ一方で、神道無念流の道場に通って剣の修行にも励んでいました。14歳になった渋沢氏は父親から「14、5歳にもなったら、田畑つくりと商売に心を入れなければならぬ。これからは幾分かは家業を習って、商いの稽古をするがいい」(『渋沢栄一』上p23)と言われたとされ、父親に代わって藍の仕入れなどを行うようになります。

 しかし、まだ14歳の子どもにすぎなかった渋沢氏のことを村人は侮り、簡単には信用しようとはしませんでした。ところが、早くから父親と一緒について回ることで藍の見分けができるようになっていた渋沢氏は、藍を一目見るだけで「こやしが悪い」「茎の切り方が悪い」と指摘し、近隣の村人を驚かせるほどの目利きぶりを発揮します。その年の藍はほとんど1人で買い集め、父親を大いに感心させたと伝えられています。

幕府転覆をもくろむも、一橋家家臣に

 その後も渋沢氏は商才を発揮し、家業を盛り立てていきます。当時は黒船来航(1853年)以来の幕末期であり、渋沢家にも尊王攘夷(じょうい)を唱える志士たちが訪ねてくるなど世相が騒がしくなっていきます。1861年、22歳になった渋沢氏は「このまま農民をしているわけにはいかない」と江戸への遊学を父親に申し出ます。

 江戸に出た渋沢氏は海保漁村の私塾である海保塾に学び、塾長を務める一方、千葉周作の三男・道三郎の道場で剣の修行にも励みます。江戸の尊王攘夷派の浪士たちとも交際する中で高崎城を攻め落とし、横浜の異人館を焼き打ちするという驚くべき計画を立てるようになりました。決起する仲間は69人とわずかなものでしたが、「天下が乱れる時は、農民だからといって知らぬ顔はできませぬ」(『渋沢栄一』上p69)と、その覚悟は「死ねば本望」というほどのものでした。

 覚悟を決め、親族に累が及ばぬように父親より勘当を受けた渋沢氏でしたが、1863年、京都から尊王攘夷派の公家7人が長州へと七卿落ちするなど勤王派が衰微するのを見て計画を断念。江戸遊学のころから交際のあった一橋家家臣・平岡円四郎氏の推挙によって一橋家家臣となります。

 それまで幕府をつぶそうと考えていた人間が、よりによって御三卿に仕官するというのは驚きですが、渋沢氏はこう考えました。

「何の功績もなく一生を終えるのはいやだ。(一命を投げ打って)潔い人だと褒められるだけで、世の中に対して何の利益ももたらさなけりゃ、たとい志あるんだと言われても、何にもならぬ」(『渋沢栄一』上p93)

 この転身こそが、その後の渋沢氏の運命を変えただけでなく、日本の近代化に大きな影響を与えることになるのです。

ヨーロッパで資本主義の仕組みを学び事業への思いを抱く

連載一覧
 御用談所下役に取り立てられた渋沢氏は、朝廷、幕府、諸藩の間を周旋する外交方だけに手腕次第では十分に活躍することもできました。そこから維新三傑の1人である、西郷隆盛氏と会う機会を持つこともでき、その後、一橋家の家政の改善などにも実力を発揮することになります。その才能を認められて1867年正月、後の水戸藩主・徳川昭武氏(15代将軍・徳川慶喜氏の実弟)に随行し、ヨーロッパへと旅立ちます。

 渡欧の主たる目的はパリで開かれる万国博覧会に昭武氏が将軍の名代として出席することでした。渋沢氏にとって約1年半に及んだヨーロッパでの経験は驚きの連続であると同時に学ぶべきことの多いものとなります。

 渋沢氏は経理担当として任された仕事をしっかりとこなす一方で、「フランス語の稽古をしたい」と申し出ています。言葉が通じなければ、どんな文明国で暮らそうが、何の得るところもなく帰国することになります。「自分は人生の岐路に立っている」と感じた渋沢氏はフランスで新知識を身に付け、日本に帰国したのちに衆目を驚かす働きをしたいと考えたのです。

 その間、銀行家フロリ・ヘラルト氏と出会った渋沢氏は、資本主義の仕組みや銀行の仕組み、さらには証券取引所や株式、公債などの知識を貪欲に求めます。また、鉄道や電信の敷設の必要性など多くのことを学んでいます。

 さらにヨーロッパ各国の訪問を通じて事業が非常に発展しているのは、合本(株式)組織で資金を広く社会から募っているからだということも学んだほか、「士農工商」という身分制度のある日本と違って官民の平等主義こそが国家の繁栄につながることも理解したことで、渋沢氏は徐々に自分の目指す社会が見え始めるようになります。

 そんな渋沢氏たち一行に衝撃の知らせが飛び込んできます。「大政奉還」(1867年10月)です。一行はこの知らせをフランスの新聞で知ったため、当初は信じない者がほとんどでしたが、1868年になり詳細な通知が届いたことで徐々に帰国の途に就き、渋沢氏も同年11月に帰国しました。

 幕臣として使えていた幕府が倒れた今、これからどうするかに苦悩しますが、渋沢氏のことを心配して江戸まで出てきた父親から今後の身の処し方を聞かれた渋沢氏はこう答えています。

「ヨーロッパで広く行われているバンクをやって元手を集め、事業を始めるつもりです」(『渋沢栄一』上p301)

 渋沢氏は新政府に仕えるつもりはありませんでした。商人が役員にこびへつらうことなく暮らすためには、バンクを設立し、債券を発行して資金を集め、大事業を行う仕組みを作り、経済界を盛り立てていく――これこそが日本国の発展になり、国民を豊かにする道だと考えたのです。

【次ページ】富は社会が与えてくれた恩恵、社会を放って自分だけ富むのは身勝手
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