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アップルの創業者、スティーブ・ジョブズ氏が亡くなったのは今から10年前の2011年10月5日(日本時間では6日)のことです。56歳での死はあまりに若く、当時はアップルの将来に不安を抱く人も多くいましたが、同社は今や時価総額世界一の企業としてその座を揺るぎないものとしています。ジョブズ氏は若い頃から「優れた製品」とともに、そのような製品をつくりたい社員が猛烈にがんばれる「いつまでも続く会社」をつくることに情熱を燃やした経営者でした。同氏のアップル復帰後の歩みからは特に、企業が成長し続けるために大切なことに気づかされます。
「落ちたリンゴ」と呼ばれたアップルの混乱期
アップルを時価総額世界一の企業に導いたのは創業者のスティーブ・ジョブズ氏です。ジョブズ氏がアップルのCEОを辞任したのは2011年8月ですが、この時期、同社の時価総額は3,300億ドルを超え、マイクロソフトやエクソンモービルを抜いて世界一(同年8月10日)となっています。
しかし、辞任からわずか2カ月後にジョブズ氏が亡くなったことで、ウォール街の人々に限らず多くの人が「将来の成長への不安」を感じました。理由はアップルという会社はジョブズ氏が生み、そして再生させた企業であり、ジョブズ氏不在の10年余り(1985~1997年)のアップルは一時的には栄華を極めたものの、後半は混乱の極にあったからです。
1984年、ジョブズ氏は「世界を変えたコンピュータ」と言われた「マッキントッシュ」を発売したものの、売り上げは期待ほどには伸びず、ジョブズ氏自身がスカウトしたCEОジョン・スカリー氏によって翌年、アップルから追放されています。
その後数年間は、改良を重ねたマッキントッシュのおかげもあり、アップルの売り上げは80億ドル近くまで成長しました。コンピュータの販売台数で世界一の企業となったものの、スカリー氏が政界に関心を示すなど、「ボールから目を離してしまった」ことで業績が急速に悪化し始め、CEОも次々と変わるという混乱期を迎えています。
この時期、急速に勢いを伸ばしたのがビル・ゲイツ氏率いるマイクロソフトです。マッキントッシュの後を根気よく追い続けたゲイツ氏は、ОSの「Windows 95」でコンピュータ業界の覇者となったのに対し、アップルは凋落の一途を辿り、ギル・アメリオ氏がCEОに就任した頃には「落ちたリンゴ」と呼ばれ、もはや倒産か身売りしかないという悲惨な状態に追い込まれていました。
それがどれほどひどい状態だったかは、ジョブズ氏がアップルに復帰して、暫定CEОに就任した1997年、「ある朝目を覚ますとスティーブ・ジョブズになっていたらどうするか」と質問されたマイケル・デル(デル・コンピュータ創業者)氏の「私ならアップルを閉鎖して株主にお金を返すだろうね」(『アップル・コンフィデンシャル2.5J』下p368)という言葉が端的に表しています。
ジョブズ氏はなぜ、火中の栗を拾ったのか
それほどに悲惨なアップルにジョブズ氏が復帰したのは1996年、アメリオ氏が新しいОSを求めて、ジョブズ氏が創業したネクストを買収し、特別顧問に迎えたことがきっかけでした。
しかし、この復帰はピクサーを1995年に株式公開したことで地位も名誉も資産も回復していたジョブズ氏にとっても非常にリスクの高いものでした。
一歩間違えると「ジョブズはアップルの誕生にも臨終にも立ち会ったトップという栄誉を担うことになる」(『アップル・コンフィデンシャル2.5J』下p259)恐れもあっただけに、さすがのジョブズ氏もアップルへの復帰、ましてやCEОへの就任には悩んだものの、最終的には復帰を決断しています。当時の心境をこう話しています。
「(アップルに戻ることに)『イエス』と言う前に考えなければならないことが山ほどあった。家族への影響や、自分に対する世の中の評価への影響なんかもね。でも結局、そんなことはどうでもいいと気づいたんだ。だって、これこそが、自分のやりたいことだったんだから。ベストを尽くして失敗したら、ベストを尽くしたってことさ」(『偶像復活』p350)
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