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- 2019/12/02 掲載
渋谷の大家「東急」創業者・五島慶太、“強盗”と呼ばれた男が欲しかったものとは?
連載:企業立志伝
嘉納治五郎から学んだ「なあに、このくらいのこと」
五島氏(1912年の結婚を機に小林から五島に改姓)は、1882年、長野県小県郡青木村で農業を営む小林菊右衛門、寿ゑの二男として生まれています。生家は、1000戸あまりしかない村では一番の資産家でした。ですが、五島氏によると現金収入はわずかなうえ、父親が製糸事業で失敗したこともあり、家計は決して楽ではなかったそうです。
それでも、五島氏は父親を説得して長野県尋常中学校上田支校に進学、そこから本校である松本中学校へと進んでいます。五島氏はさらなる進学を希望しますが、実家の経済状態を考えるとそれはできませんでした。しかし、進学の夢を諦めきれなかった五島氏は、地元の小学校で代用教員を務めながら進学のチャンスをうかがいます。
五島氏によると、学校で学んだことのほとんどはのちの人生に残らなかったものの、嘉納氏の「どんなことにぶつかっても『なあに、このくらいのこと』というように考えろ」(『私の履歴書』p14)という言葉は、生涯の教訓となったといいます。
東急電鉄につながる“肩書き”騒動
師範学校を卒業した五島氏は、四日市市立商業学校の英語教師となります。しかし、そこにいたのは「バカに見えて、とうていともに仕事をしていくに足りない者ばかり」(『私の履歴書』p14)で、「これではいかん」と意を決した五島氏は、再び教師の職を辞して東京大学法学部へと進学しています。
家庭教師をして学費を稼ぎながらの学生生活を送り、1911年、29歳で大学を卒業した五島氏は、農商務省に就職。2年後には鉄道院に転じています。
五島氏はその後、10年近く役人生活を続けるわけですが、そこでのあるエピソードがのちの東急電鉄創業へとつながっています。
役人時代後半の五島氏の肩書きは、「課長心得」です。しかし、この「心得」が気に入らなかった五島氏は、稟議書に記入してある「課長心得」のうち「心得」の文字を消して印鑑を押して上司に回していたそうです。当時、上司に人事で文句を言うなどもってのほかでしたが、理由を聞かれた五島氏はこう意見を述べています。
「私は本当の課長としての責任をとって、本気で書類にハンコを押しています。心得という中途半端な無責任な字は消している。これは私を侮辱したことです」(『小説東急王国』p17)
数日後、五島氏の意見が認められたのか、五島氏は正式に総務“課長”となっています。それだけでなく、のちにこのエピソードに惚れ込んだ武蔵電気鉄道株式会社(現在の東急東横線の母体)会長の郷誠之助氏が五島氏を引き抜くきっかけともなります。
渋沢栄一の「田園都市計画」に参加
1920年、五島氏は鉄道院を辞し、武蔵電気鉄道常務に就任します。この転身には、官僚としての生活への飽き足らなさがあったようで、こう振り返っています。「官吏というものは人生の最も盛んな期間を役所の中で一生懸命に働いてようやく完成の域に達する頃には、もはや従来の仕事から離れてしまわなければならない。若い頃から自分の心にかなった事業を興してこれを育て上げ、年老いてその成果を楽しむことのできる実業界に比較すれば、いかにもつまらないものだ」(『私の履歴書』p16)
ちょうどその頃、渋沢栄一氏は健康的な田園都市住宅をつくろうと、田園調布と洗足に45万坪の土地を購入。その住民らに、交通の便を提供しようと、目黒から多摩川のふちまでの間に鉄道を敷設すべく荏原電気鉄道(のちの目黒蒲田電鉄)を設立します。
しかし、鉄道に関しては素人集団であり、計画は難航していたそうです。
そこで、渋沢氏が大株主の矢野恒太氏(第一生命創業者)に相談したところ、関西での鉄道事業で成功していた小林一三氏の名前が挙がったものの、多忙だった小林氏は代わりに旧知の五島氏を推薦したのです。
【次ページ】五島氏をやる気にさせた、小林一三氏の説得とは? 「強盗慶太」の本領発揮
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