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  • 2016/08/15 掲載

日本の官僚的組織は、なぜ戦後からずっと変わらないのか(2/2)

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「負けること」を先送りしたかつての戦争末期の日本

 実はその根っこはかつての太平洋戦争末期に「負け」を先送りにした、当時の戦争指導部にも見て取れる。無責任な決断先送りは1945(昭和20)年8月15日を迎えるまで続き、天皇の聖断が下った後まで続くのである。

 これら一連の動きの典型的な例の1つとして挙げられるのは、当時の外務大臣東郷重徳が行ったソ連を仲介役とする終戦工作である。ソ連に和平工作仲介役を依頼する日本側の論理は当時、日本とソ連は日ソ中立条約を結んでおり、1946(昭和21)年4月までが有効期間であったからである。

 モスクワの日本大使館は東京からの指示に従い、ソ連に向けて和平工作を進めていた。1945(昭和20)年7月25日、モスクワの佐藤尚武駐ソ連日本大使は天皇の側近近衛文麿の特使派遣について再度ソ連に受け入れを要請していた。だが、ソ連側は何の反応も示していなかった。

 それもそのはずで、ソ連はヤルタ会談でアメリカ大統領ルーズベルトから対日参戦を強く求められ、それに応えて参戦を決意していたのである。つまり、ソ連は日本との中立条約がありながら、連合国側についており、事実上は敵対国であったのだ。

 日本外務省はこれほど重大な情報を集めることができず、敵国に和平の仲介を求めていたことになる。まさに思考停止状態とはこのことで、日本側の情報はソ連を通じて連合国に筒抜けとなっていた。

 事実、1945(昭和20)年7月18日、ポツダムのソ連代表団宿舎を訪ねて来たトルーマンと面会し、日本から送られて来た極秘の親書を手渡した。それは日本がソ連を通じて終戦を模索していることを示す天皇の書簡だった。

 そしてアメリカによって広島に原爆が投下された翌日の1945(昭和20)年8月7日、スターリンの下に日本の佐藤大使が外相モロトフに面会を申し込んできたという知らせが舞い込んだ。日本は原爆が投下された後もソ連の調停に希望を繋ぎ、まだ降伏の意思のないことが確認された。

 原爆投下で日本がすぐさま降伏し、ソ連参戦の機会を失うことを恐れていたスターリンは、直ちに対日参戦の指令書に署名し、その作戦実行予定日を1945(昭和20)年8月9日とした。それでもなお、佐藤大使は1945(昭和20)年8月8日午後5時、モロトフに面会するためクレムリンを訪れた。モロトフはソ連政府がポツダム宣言に参加することを伝え、日本に対する宣戦布告文を読み上げた。

 このとき、ソ連を頼りに和平を求めて来た日本は、明確にソ連から突き放されたのである。この経緯を見るだけでも、在モスクワ大使館を始め、さまざまなインテリジェンスがソ連の意図を読み解くことができず、利用されるばかりであったことがわかる。

 当時の外務省は、交渉を続けることのみが最重要課題であったがために、戦争の全体像には関心がなく、問題解決の結果を相手にゆだねることで、問題の先送りをしていただけだと言えよう。

宮城事件に見る、現実を省みない「先送り・無責任」体質

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『なぜ日本は同じ過ちを繰り返すのか──太平洋戦争に学ぶ失敗の本質』(松本利秋 著)
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 「本土決戦」という切り札を持っていた軍部は、それを強硬に主張することでポツダム宣言受諾という天皇の聖断でさえも無視して、終戦という結論に至る道を先延ばしし、組織温存を図った。

 その典型例が玉音放送の妨害行動である。1945(昭和20)年8月15日午前0時過ぎ、玉音放送の録音を終了して宮城を退出しようとしていた下村宏情報局総裁及び放送協会職員など数名が、坂下門付近において近衛歩兵第二連隊第三大隊長佐藤好弘大尉により拘束された。

 彼らは兵士に銃を突き付けられ、付近の守衛隊司令部の建物内に監禁された。クーデター参加に消極的な態度であった近衛第一師団森師団長が、過激派将校に師団長室内で銃撃された上に軍刀で斬殺された。さらにもう一人の同室者も斬殺された。

 この殺害後、師団参謀の古賀少佐は近衛歩兵第二連隊に展開を命じた。また、玉音放送の実行を防ぐ為に内幸町の放送会館へも近衛歩兵第一連隊第一中隊が派遣された。宮内省では電話線が切断され、皇宮警察官たちは武装解除された。

 玉音盤が宮内省内部に存在することを知った古賀少佐は侵入部隊に捜索を命じ、宮城内の捜索が行われたが、宮内省内にいた石渡荘太郎宮内大臣および木戸内大臣は金庫室などに隠れ、玉音放送用のレコードも難を逃れた。2枚の録音盤は皇后宮職事務室から運び出され、無事放送会館及び第一生命館に設けられていた予備スタジオへと運搬された。

 午前11時30分過ぎ、放送会館のスタジオ前で突如1人の憲兵将校が軍刀を抜き、放送阻止のためにスタジオに乱入しようとしたが、すぐに取り押さえられ憲兵に連行された。そして正午過ぎ、ラジオから下村総裁による予告と君が代が流れた後に玉音放送が行われ、戦闘は休戦となった。

 事件に関係した将校たちは、明らかに当時の軍法及び刑法に違反する行為を行なったにもかかわらず、敗戦とそれに伴う軍組織の解体などの混乱により、軍事裁判にかけられることも刑事責任に問われることもなかったのである。

 冒頭でふれた今回のバングラデシュ事件も、戦後日本に残された唯一の外交戦略上の武器である「経済援助」の使い方が、硬直したまま継続され続けたところに原因があったと言える。この視点から見ると、日本の官僚的組織のビヘイビアは71年前と変わっていなかったのである。

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松本 利秋(まつもと としあき)
1947年高知県安芸郡生まれ。1971年明治大学政治経済学部政治学科卒業。国士舘大学大学院政治学研究科修士課程修了。政治学修士。国士舘大学政経学部政治学科講師。ジャーナリストとしてアメリカ、アフガニスタン、パキスタン、エジプト、カンボジア、ラオス、北方領土などの紛争地帯を取材。TV、新聞、雑誌のコメンテイター、各種企業、省庁などで講演。著書に『戦争民営化』(祥伝社)、『国際テロファイル』(かや書房)、『「極東危機」の最前線』(廣済堂出版)、『軍事同盟・日米安保条約』(クレスト社)、『熱風アジア戦機の最前線』(司書房)、『「逆さ地図」で読み解く世界情勢の本質』『日本人だけが知らない「終戦」の真実』(SB新書)など多数。

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