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長谷川博己、竹野内豊らが出演し、公開2週目で累計動員数145万人、累計興行収入21億円を突破したゴジラのリメイク作品「シン・ゴジラ」。映画ファンの間でも「特撮映画というジャンルの域を超え、映画としても近年まれにみる傑作」との呼び声が高い。シン・ゴジラはなぜ、ここまでのヒットを記録したのか。同作の庵野 秀明監督が描いたテーマは、日本の組織的課題を考える上で避けては通れないものであり、今回のヒットにはそれが深く関連しているのだ。
シン・ゴジラはなぜ大ヒットしているのか?
シン・ゴジラを評価する声のなかで興味深いのは、「昔の人が、初代ゴジラを観た感動を現代人が追体験することができた」との声である。何度もリメイクを繰り返され、手垢にまみれ、子供用のキャラクターグッズ的存在となり下がってしまったゴジラではなく、今回のゴジラは、今を生きる人にとっての強烈なリアリティを有する映画であったということだ。
元来、ゴジラというキャラクターは、この国における災厄の象徴であった。海から姿をあらわして、巨大な力で都市を破壊し、放射能を撒き散らす、初代作品におけるそれとはもちろん、先の戦争における空襲、原爆のことを暗喩していた。
庵野秀明監督は今回、ゴジラをリメイクするにあたって、3.11の東日本大震災およびそれに端を発した原発事故をテーマに置いた。その観客である私たちは、その記憶を強烈に有している。シン・ゴジラの評判の高さは、かの災害の際に明るみに出た今日の日本の問題が、極めて優れた形で、スクリーンのうえで再現されたということを意味しているといえる。
ゴジラというシリーズは、環境問題をはじめとする様々な時代的問題を取り上げてきたが、今回のリメイクでは別の観点でも評価を獲得している。それは、今日の日本における最大の長い病である「組織的課題」を鋭くとらえている点である。
「会議」に振り回され、事態が深刻化する様子が描かれる
ネタバレしない程度に書くと、シン・ゴジラにおいては「会議」が大きなモチーフになっている。映画の最初から最後に至るまで、とにかく会議、会議の連続で、ゴジラという未曾有の厄災に対して徹頭徹尾、会議を通してその対処を模索する日本政府の姿が描かれる。
「事件は会議室で起きているのではない、現場で起きている」とは、かつて日本の実写映画において興行収入No.1の地位を確立した映画「踊る大捜査線シリーズ」の名ゼリフであった。シン・ゴジラにおいても、会議という形式に振り回されることで、対処を遅らせ、被害を深刻化させていくという問題が表出している。
劇中においては、一人ひとりの人物は、それなりに真摯で真面目に取り組んでいる。にも関わらず、結果としては的外れな公式見解、希望的観測に基づく対処、責任回避的行動が生まれるばかり。この自体を歯がゆく感じなんとか事態を打開しようともがくのは、長谷川博己演じる主人公、内閣官房副長官・矢口蘭堂、そして全ての状況を俯瞰している観客である。
とっとと事件の現場でさっさと最善の対応ができないものか。なぜこの世に会議が必要なのか。これらの問いには答えがある。それは、皮肉にも映画の観客のように「全ての状況を俯瞰している存在」が、現実に存在しないからだ。
だからこそ、関係各所の見解と知恵を集約し、意思決定の内容を展開する。この往復運動なくしては規模の大きな行動を成功させることは不可能であり、会議とは本来、現場を支援するための「手段」なのである。
しかし残念ながら、現実社会で会議が本当に機能を発揮することは稀なことである。いかに発端が、「現場のための会議」であったとしても、必ずいつしかそれは、「会議のための会議」に堕す。そしていつも、最終的に発せられるのは、「事件は会議室で起きているのではない」のセリフなのであった。
実は、そのセリフを叫ぶだけでは事態の改善にはつながらない。映画「シン・ゴジラ」を通して私達が考えさせられるべきは、「すでに確立された会議体で対処されることが可能なのは、想定された事象に対してのみである」という問題である。
【次ページ】長谷川博己演じる主人公が率いたチームの意思決定
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