映画『エンディングノート』監督 砂田麻美氏インタビュー
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「人が死ぬ」ということに対して納得がいかなかった
――父と娘の話から切り離して映像を作りあげることは、監督自身の中でお父さんの死をとらえなおす作業でもあったんでしょうか。
砂田氏■編集し終えてしばらく経ってから、それまで起きていたことに対して少し客観的に見られるようになり、自分が夢中になっていた作業は一体なんだったのかと考え始めました。
そこで思い当たったのは、「人が死ぬ」ということについて、私は納得がいかなかったんだろうな、ということです。「人は死後、どうなるか分からない」というのが正直なところだと思います。みんな分からないままに生きていく。でも、私は分からないことに耐えられなくなっちゃったんです。それで映画を作った。完成して、明快な答えを見つけたということではないのだけれど、なんていうか「これでいいんだ」と感じました。「分からない」という状態を自然に受け入れられるようになった、というんでしょうか。そう思えるようになったのは、映像を通じて自分なりにある種の答えみたいなものを探したからだと思います。
――ガンをテーマにしたテレビ番組をお父さんがじっと見ているシーンで、「私は死ねるでしょうか。上手に死ねるでしょうか」というナレーションが入ります。その台詞を聞いて、胸を締めつけられる思いがしました。この問いには、不可解な「死」に対する人々の不安、恐れが的確に表れていると思います。砂田監督としては、この映画を通じて一番伝えたかったこととはなんでしょうか。
砂田氏■人がこの世を去るところを見てしまった。見た以上、見たことに責任があるような気がしたんです。自分の経験をそのままにしておくのではなくて、何か形にして伝えたいという欲求が湧いてきました。人が死ぬと肉体はなくなるけれど、すべてがなくなったわけじゃない。まだここに何かある。これはなんだろうという不思議な感覚や、死の瞬間に見た光景を伝えたい、それ以上に共有したいと思いました。
共有したい感覚が一番現れているのは、霊柩車が遠ざかっていくシーンです。あのとき、すごく不思議な感じがしました。車に乗って後ろを振り返ったら、弔問客の人がこっちを見て手を合わせている。私は生きているにもかかわらず、自分が父親の目になったような感じがしたんです、視線の位置的にも。まるで自分が死者として見送られているような。その不思議な感覚が、結局生きていることと死んでいくことの不思議さにつながっていく気がしました。その得体の知れない感覚を、映像の中に閉じ込めておきたかったんです。
――映画の公開に先駆け、小説『音のない花火』(ポプラ社)も発売されました。こちらは「私」という一人称で父の死が語られています。
砂田氏■撮影しているとき、娘としての自分と、撮影者としての自分という、まったく別の2つの人格がありました。無理して切り替えているというよりは、どっちかが急に出てきたり、どっちかが下がったりということが日々自然に行われていたんです。でも、映像を編集しているときにはちょっとやりすぎかなと思うくらい、娘の視点をストイックに排除していきました。「娘が父親の死をどう考えていたのか」というのを一切描かなかった。そのせいか、ずっと喉の奥に何かが詰まっている違和感がありました。
それで、今年に入って仕上げの最後の編集作業と並行して、フィクション
ではありますが
小説も書き始めました。もしその頃に今のように取材が始まっていて、自分の思いを語る機会があったら、小説という形で補完したいとは思わなかったかもしれません。本では、傍観者や取材者のスタンスは一切なく、娘としての自分の視点で書いています。
――撮影者として、この映画を通じて得たものはありますか?
砂田氏■映像を公開したときにそこに登場する人々がどういう視線に晒されるかということを、身を持って体験することができてよかったと思っています。
たとえば、テレビ番組のディレクターが、ある一家を取りあげ、いい話にまとめたとします。でも、視聴者の中には「あの家族、何様だ」と叩く人がゼロとは限りません。そのときに一緒に責任を持てるかどうか。いい話にしろ、悪い話にしろ、他者を人目に晒すということがどういう痛みを伴うかということを、実感としてつかむことができたと思います。この先、フィクションを撮る機会があったとして、役者さんを使うにしても、その「痛み」を経験しないまま演出するのと、肌で知っていて演出するのとでは違うだろうなと思います。
――試写会などで映画の感想をいろいろと聞く機会があると思いますが、観客の反応を見て思うことは?
砂田氏■具体的にどういうコメントが印象に残ったというより、映画について話しているときのみなさんの表情や姿に驚くことが多かったです。地方の合同取材だと、スーツを着た新聞記者の方々に取り囲まれて、ガチガチに堅い雰囲気の中で始まるんですが、話しているうちに「ああいうことって、ありますよねえ」と笑顔が見えたり、記者さん同士で家族の話をしたり。公の顔とは違ったプライベートの顔が出てくるんです。自分の映画がその人の人間らしさを引き出すきっかけになっているのだとすると、そこに映画を作ることの醍醐味を感じます。
しゃべっているうちに泣き出しちゃう記者さんもいるんですよ、男性でも。奥に眠っている感情がポロッと出てしまう姿を目にすると、みんないろんな気持ちを抑えて暮らしているんだなあ、と。映画にできることって、普段は硬くなってしまっている心を、ちょっと柔らかくしたりすることなのかもしれないな、と思います。
――砂田監督は、いつかは是枝監督の下で働いてみたいと思い続けていて、4年越しでチャンスをうかがっていたと聞いています。この映画は時間の積み重ねの賜物だと思いますし、やりたいことのために時間をかけることは厭わないタイプですか?
砂田氏■さすがにこの世界を志してからはあまりに自分自身の経済状況が厳しくて(笑)、「ちょっともう無理かな」と本気で思っていました。いくらやりたいことがあるとはいえ、「人としてマズイ」レベルの貧しさだったので。今も映画監督という名称がついたくらいで、いきなり変わらないところが残念ですが(笑)。
ずっと前から、ほんの15分でもいいから何か映像という形にしたいと思っていました。でも、ほとんどそのチャンスがありませんでした。20代のときと、30代になってからは、作りたい欲求も作りたいものも変化していく。そのときどきにしかできないこともあるはずなのに、ずっと作るチャンスがない。時間だけが流れていくことに対して苛立ちもあり、さらに生活がギリギリという。違う職業に就こうかと真剣に考えたときもありましたが、映像からすべて手を引くことがどうしてもできなかったんです。止めることが選択肢としてないなら、「しようがないな」と思って続けていました。
この映画も半ば開き直って、ただ作りたいから作ったんです。周りの人のことや評価なんてどうでもいいや、と思って。周りの目を気にしているうちは、結局は何もできなかったんだなって今にして思います。
――制作過程を伺っていると、お父さんからの最後の贈り物のようにも思えますね。
砂田氏■そうですね。すぐに配給会社や映画館が決まったことや、音楽にハナレグミがついてくれたこととか、いろいろトントン拍子に進んで。これまでの日々とのギャップが激しすぎて、「これはちょっと私の力だけじゃないんじゃないか」と。かなりの段取り感があったので、父が裏でこっそり手を回してくれたんじゃないかって(笑)。でも「今回までだよ」と言われているような感じがします。これからまた大変な日々が待っていると思っていますが、この映画が次に進む力になりました。
(取材・構成:澁川祐子、撮影:
市村岬)
●砂田麻美(すなだ・まみ)
1978年東京都出身。慶應義塾大学総合政策学部在学中よりドキュメンタリーを学び、卒業後はフリーの監督助手として是枝裕和らのもと、映画制作に従事。本作品が第一回監督作品となる。
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