大正筋商店街に震災前のにぎわい戻らず
古い商店や民家が焼け落ち、一面が焼け野原に。行方不明の家族を捜す人々があまりの惨状に泣き崩れる。JR新長田駅から南へ歩いて5分、長田区久保町の大正筋商店街は1995年1月の震災で店舗の9割が全焼し、見るも無残な姿に変わり果てた。震災で最も被害が大きかった地域だ。
あれから25年、焼け野原は神戸市主導で再開発が進み、マンションと商店街が一体となった「アスタくにづか」など再開発ビルが20棟以上も建てられた。アーケード街は天井のガラスから日の光が差し込む明るい雰囲気。焼け野原の面影はどこにも感じられない。
大正筋商店街は大正時代の1918年に設立された。おしゃれでハイカラな神戸の中で下町情緒を残した商店街としてにぎわっていたが、ビルの中の商店街に昔の活気はない。震災前に軒を連ねていた約100店舗が今では50店ほど。再開発ビル全体の商業フロア約6万7000平方メートルのうち、半分以上は買い手がつかず、神戸市が所有したままだ。
新長田駅南地区の人口は2019年9月現在で約6000人と震災前の1.4倍に増えたが、新たにやってきたのは大阪市や神戸市中心部で働くサラリーマン層が中心。昼間人口は2016年で1991年から約3割も減っているという。
高いビルの管理費を支払って入居しても、なじみ客が戻らず、閉店した店舗も多い。店主の1人は「フロアが大きすぎた。下町に身の丈に合わない箱物を建てたのかもしれない」と表情を曇らせた。
この状況を打開しようと、兵庫県と神戸市は2019年7月、商店街近くに約1000人が働く新長田合同庁舎を整備した。その近くには看護師らを養成する兵庫県立総合衛生学院が移転する計画だ。
長田区もランチ情報の発信や若手クリエイター、地域と協働したイベントの開催などに力を入れ、にぎわいを取り戻そうと躍起になっている。長田区まちづくり課は「合同庁舎の完成で商店街の人通りが少し増えてきた。引き続き地域団体への支援を進め、活力を取り戻したい」としている。
国際貿易港としての地位は急低下
神戸市沖に浮かぶ人工島・ポートアイランドの中埠(ふ)頭。積み荷を降ろした貨物船が冬の日差しを浴び、出港を待っていた。かつて世界2位の国際貿易港だった神戸港のコンテナ取扱量は2018年、ようやく震災前の数字を上回ったが、世界ランキングは63位と大きく順位を落としている。
神戸市みなと総局によると、2018年のコンテナ取扱量は20フィートコンテナに換算して294万個。前年の292万個から2万個増え、震災直前に当たる1994年の292万個を超えた。国の国際コンテナ戦略港湾に指定され、輸出入貨物を神戸港経由に切り替えた船会社や荷主に国の補助金を出す制度が充実したことなどが影響したとみられる。
神戸港のコンテナ取扱量は1976、1977年に世界2位となり、1994年も6位を占めていた。しかし、震災で岸壁が沈下し、コンテナを扱うクレーンが倒壊するなど、港湾機能をマヒさせる深刻な損害を受けた。その結果、1995年のコンテナ取扱量が半減、横浜港などに抜かれて国内トップの位置から滑り落ちた。
その後、コンテナ取扱量は徐々に回復へ向かったものの、東アジア諸国の経済成長もあり、海外貨物の多くが中国や韓国へ流出する。港湾が復旧しても海外貨物の多くが戻らず、海外港同士を結ぶハブ(拠点)港としての存在感が失われた。
1995年に24位へ後退した世界ランクは2018年で63位。中国の上海や寧波、韓国の釜山、台湾の高雄、シンガポール、香港など東アジアのライバルに大きく後れを取っている。バブル崩壊以降、日本が世界経済の中で1人負け状態を続けてきたことも響いた。
神戸市みなと総局は「神戸港が世界で存在感を高められるようにしたいが、経済情勢などを考えると神戸市だけの努力で実現できない部分もある」と現状に苦慮している。
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