『パッチギ!』『シュリ』『フラガール』プロデューサー 李鳳宇氏インタビュー
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『フラガール』(李相日監督、2006年)や『パッチギ!』(井筒和幸監督、2005年)を製作。古くは、『月はどっちに出ている』(崔洋一監督、1993年)が、シネカノンの製作第一弾だった。配給面では『シュリ』『JSA』で「韓流ブームの火付け役」とも呼ばれ、渋谷や有楽町に直営館を持つなど、インディペンデントの映画会社として前例のない躍進を遂げていた。そのシネカノンが倒産した。2010年1月だった。負債総額は、約50億円。東京地裁に「民事再生」の申請を申し出た。1年をかけて「会社再生」が認められたものの、新会社ジェイ・シネカノン発足時には、再生に尽力していた李鳳宇さんの名前は消えていた。李鳳宇の名前がメディアに上ったのは、2011年9月。「東北映画祭」で被災地を、移動映画館を使ってまわっていた。2011年4月に、映画製作会社SUMOMOを設立、再びインディペンデントの映画会社としての再出発をはかる李さんに、シネカノンの「失敗」の原因と、この間の歩みを振り返ってもらった。
映画業界の変貌とシネカノン・ファンド
──まずシネカノンが経営破綻した理由は何だったですか?
李鳳宇氏(以下、李氏)■端的にいうと、僕が経営判断を間違ったということです。あれから3年ほどして、俯瞰的に見ることができて思うんですが、流れとしては、5年くらい前から映画界では、ギャガやアスミックエースといった会社が上場企業に吸収されるというのが続いていた。累積赤字で苦しんでということなんですが。
──渋谷の文化村通りにあった映画館シネ・アミューズが渋谷シネカノンとなり、さらにヒューマントラストと名前を変えていったのも、背景にはそういう事情があったということですよね。
李氏■共同出資でやっていた映画館から、アミューズが撤退するから出資分を買い取ってくれという話になったのも痛かったですね。インディペンデント系映画の製作、興行、配給、どれもがダメになっていった頃で、メディア・コングロマリットが完成していく過程での1つの出来事でもあったのかなと。それが、我々をとりまく状況でした。
もう1つは、僕の失敗です。映画業界では、初めての試みのファンドです。『パッチギ!』のあと、トヨタ自動車やアサヒビールも出資していたJDC(ジャパン・デジタル・コンテンツ)という会社に、シネカノン・ファンドの組成を提案されたんです。興銀におられたDさんという方が、「李さん、あなたのために日本で初めての映画のファンドを作りますよ」といってくださって。50億円を集め、5年間、何に使ってもらってもいいという、ありがたいお話だったんです。
──一方で、シネカノンは、映画館も渋谷のほかに、有楽町、神戸と、スクリーン数を増やしていましたよね。
李氏■12スクリーンくらいまで増やしていました。30スクリーンにまで増やして、ファンドを使って年間4、5本の映画の製作を安定してやっていければ、準メジャーの映画会社になれるのではないかと考えていたんです。要するに、製作・配給・興行網を独自で確立できるのではないかと。
しかし、JDCは後に上場廃止となり、信託業務ができない会社になっていくんです。お金を持って逃げたりする人間が出たり、いろんな不正が発覚したりしてね。ファンドを作ろうと持ちかけてくれた人たちの話とはズレていった。
でも、シネカノン・ファンドという名前がついていますから、投資した人は、僕らに投資した気持ちになっている。だけども、蓋を開けてみたら、システムが違っていた。当初設定されていなかった手数料が付け加えられ、金利がどんどん上がっていくわけです。もちろん抵抗はしましたが。
資金の運用にしても、審査はありますし、当初言われたように「どうぞ自由に」なんてものじゃなかった。いちばんの齟齬は、償還までの期限が5年と切られていたことです。企画がスタートすると、3か月後には製作に入らないといけない。完成は6か月後、公開も9か月後というふうにベルトコンベアになっていて、いろんな追加条件がついていく。もちろん、スタートと同時に金利がついてきます。
JDCの経営が厳しくなったからだと思いますが、宣伝部門をJDCの内部に設け、広告の資金を使いたいから任せてくれ、とか言われたりね。これはおかしいと思っていたら、話をもちかけてきたDさんが失脚する。次の社長に、これまでの経緯を説明したと思ったら、また社長が変わる。半年の間に、3人も社長が変わった。
結果的には、評判のよくない人たちが残って、「償還期間がある」と言っても、未払い金を早く返してくださいと言ってくる。ファンドから借りていたのは4から5億で、悩んだ末に、増資することにしたんです。シネカノンは、95パーセント、僕が株を持っていたんですが。