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- 2025/01/16 掲載
「正解を求めない」ドラゴン桜の編集者が説く、「わからない」状態の価値とは
なぜ人は「わかりたい」と願うのか
エポケー。なんとも間抜けな言葉の響きだ。高校の倫理の授業で、ギリシア哲学の用語として出てきて、なんとなく響きだけ覚えている。「判断保留」という意味だ、と言われても、なぜ判断保留をわざわざ特別な言葉で言うのか、良い判断を少しでも早くできるほうがいいではないかと、エポケーのことはすっかり忘れてしまっていた。
最近の僕の頭の中では、何かあると、「エポケー」という言葉が、カッコウの鳴き声のように鳴り響く。
エポケー。
この言葉のもつ重要さがやっとわかるようになってきたのだ。
僕たちは、生まれてきて、何もわからない状態だ。だから、大人が子どもを守り、子どもに教える。人は知識を身につけたいと思う。「わかりたい!」と願う。
相手の話を聞きながら、僕たちはたくさんうなずく。わかっていることを伝えるためだ。「わかってる?」と質問されたときの答えは、「はい」が期待されている。「わからないから、もう一度言って」「これってわかる必要があるの?」なんて答えは求められていない。日常生活の中で、早く「わかる存在」になろうと努力している。
僕らが、必死に何かを学び、わかろうとするのは、良い判断をするためだ。僕らは、良い判断ができる人になりたい。そして、良い判断をするための情報を求める。ビジネス本を読むのは、その考えにもとづいて判断したら、今の自分よりもいい判断ができるかもと期待するからだ。
僕の中で何かを「わかった」と思った瞬間に、エポケーと鳥が鳴く。
「わかったって何?」「どんな状態?」「わかりたいことにしたいのはなぜ?」
矢継ぎ早に問いが飛ぶ。青い鳥がいたら、世の中どれだけ楽だろう。
青い鳥、南無阿弥陀仏、宝くじが当たること。絶対的な幸せの象徴。手に入れたら、幸せになると人々が思っているもの。しかし、どれも手に入ることがない。手に入ることがないから、一生追い続けることができるとも言える。エポケーとは、絶対を諦めることだ。僕は、エポケーという言葉を発し、再度、観察を始めることで、「青い鳥を思い求めない人生」を過ごしたいと思っている。
『ドラゴン桜』で伝えていた学びの先に「2の学び」
ここからは、「学ぶ」という行為を2つに分けてみたい。- 「スキルを身につけることで、無意識に行えるようにする学び」
- 「身につけているスキルを、意識的に行えるようにする学び」
学校教育も一般的な学びも1であることが多い。どうやって1の学びを効率的に行うか。そのことを多くの人は議論している。『ドラゴン桜』で伝えていたのは、まさに1の学びをどうやって効率的に行うかだった。詰め込み学習で、基礎学力を身につけることが重要だと主張した。
観察をめぐる僕の思考では、どうやって2の学びをするかということに終始している。最近よく言われる「アンラーン(脱学習)」という学び方とも近いかもしれない。一度、身につけた学びを意識的に手放す。手放すために、バイアスや感情を理解して、観察することが必要だ。
2の学びが、アンラーンだとしたら、それはラーン(=1の学び)の後にしかこない。1の学びを極めてからでないとできない。1を経ずして、2の状態にいくことはない。そして2は、判断保留しているとき、エポケーのときにやってくる。バイアスに気づくために「問う」が有効だ。問いを発し、その問いのために観察をすることで、判断保留が起き、無意識にやっていたことが意識的にできるようになる。 【次ページ】「慣れたころが一番危ない」といわれるワケ
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