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人間の仕事がAIに取って代わられ、シンギュラリティが到来するのでは、と危機感を覚える人も多い。しかしAIが合理的な情報処理に優れているからこそ、「作業」はAIにまかせ、人間は新しい知性の形を探求すべきなのではないか。共立女子大学教授 文芸学部長 文芸学研究科長 山本聡美氏は、「新しい時代を模索する際に、中世の日本人が備えていた『芸術のリテラシー』と、これに基づく『重層的な世界観』を評価することが有効」と説く。中世美術を通じて、芸術とテクノロジーの関係を考える。
聞き手:編集部 佐藤友理、執筆:桑原晃弥、撮影:大参久人
聞き手:編集部 佐藤友理、執筆:桑原晃弥、撮影:大参久人
「中世」とはどんな時代なのか?
──中世絵画史がご専門ということですが、日本の「中世」というのはどの時代を指すのでしょうか。
山本氏:「中世」というのはあくまで歴史学で用いる時代区分の指標です。「中世とはどんな時代か」という問いは、「現代の歴史学でどんな社会を“中世的”と捉えているか」という問題なのです。
当然、「中世とはどんな時代か」には複数の学説があります。「中世がいつどのようにして始まり、いつまで続くのか」という問い自体が論点でもあります。ですので、ここでは美術史を通じた、私なりの中世の捉え方を示しておきます。
現在私たちが「美術」と呼ぶ絵画、彫刻、建築、工芸品などの造形は、いずれもある材料を特定の技術で加工した「物」です。中世の美術には、多くの場合、宗教や政治、社会的上層の日常生活に関わる用途があり、金や銀をはじめとする鉱物や、絹、紙、木材、漆などといった稀少で高価な材料が必要で、制作には高い技術を備えた絵師や仏師らが関与しました。そのため、中世日本で美術品の注文主や所有者となれるのは、多くの場合、天皇や皇族、公家、武家、そして有力寺社でした。
中世という時代では、権勢をふるう家や宗教組織が、協力と競合のバランスを保ちながら、荘園(中央の貴族や寺社が支配する私領)や公領(国司が管轄する土地)、あるいは貿易からの収益を集め、集めた富の一部が絵画、彫刻、建築、工芸品の制作費用として、再配分されていたのです。
美術の背後には圧倒的な権力がある
──権力者と美術はどこの国の歴史を見ても結びついています。日本の場合はどうだったのでしょうか?
山本氏:古代の日本で美術品を制作する仕組みを使えたのは、社会のごく限られた豊かな層だけでした。「美術品を制作する」という行為は、天皇、藤原摂関家といった朝廷の中枢にいる人間にしかできないことだったのです。その結果、美術品の制作は一元的に管理された、国家プロジェクトともいうべき形をとりました。
奈良時代(8世紀)に聖武天皇が造営した東大寺大仏や、平安時代初頭(9世紀)に朝廷の命を受け、唐で学んだ空海や最澄らが日本にもたらした曼荼羅などの密教美術、平安中期(1053年)に藤原頼通が建立した平等院鳳凰堂などの背景には、各時代の為政者の圧倒的な権力と富がありました。
院政がもたらした「中世」の到来
山本氏:その状況が、白河上皇による院政の開始(1086年)によって変化します。
「院政」とは、退位した天皇である上皇が、現天皇の父や祖父という立場から政治を行う政治形態です。院政は、前時代の摂関政治(幼い天皇をその外祖父である藤原氏が補佐する仕組み)を天皇家の内部で再構築することで実現します。上皇の政治的主導権掌握が目指されました。しかし、朝廷内に天皇と上皇という複数の権力機構が生じ、摩擦の温床ともなったのです。
上皇と天皇との対立や、皇位継承に関わる朝廷内での勢力争いなどが頻出する事態を院政はもたらしました。やがて紛争解決の手段として武力が用いられる時代がやってきました。先に見た、天皇や皇族、公家、武家、そして有力寺社がしのぎを削る時代、つまり中世が到来するのです。
白河上皇による院政開始から、鳥羽上皇、後白河上皇、後鳥羽上皇へと続くおよそ130年間は古代から中世への移行期です。その間に、保元・平治の乱(崇徳上皇と後白河上皇兄弟の対立、及び後白河上皇と二条天皇親子の対立、そこに近臣たちが絡んだ内乱)、治承・寿永の乱(いわゆる源平合戦)、承久の乱(後鳥羽上皇による鎌倉幕府への挙兵と敗北)と連続する合戦を経て、鎌倉の武家政権も確立しました。
「地獄に堕ちないため」の美術
それまでの権力者にとって、殺生の大罪は宗教的フィクションでしかありませんでした。しかし、政治的な対立が実際の戦を招き、殺生が現実のものとなりました。しかも、公家、武家にかかわらず権力者たちは殺生の当事者となることで、不安と恐れを抱くようにもなります。自ら引き起こす無残な殺生が、最終的には自分に神仏からの罰をもたらすと考えたからです。「罰(ばち)が当たる」ということです。
読者の中には、「罰なんて非科学的なものを恐れるのはばかばかしい」と考える人もいるかもしれません。でも想像してみてください。中世の日本には、今日の私たちが頼りにする科学の枠組みは存在しません。世界の成りたちや仕組みを説明する方法が科学だとすれば、中世の日本人にとって神道・仏教こそが合理性を伴った科学だったのです。そう思うと、「殺生を引き起こしたら、それ相応の罰が当たる」なんて、非常にわかりやすく、信頼に足る理屈ですよね。
中世の日本人は、殺生によって地獄に堕ちる恐怖から自分を救ってくれる手段を神仏に求めました。こうした理由で彼らは宗教的な美術に注力するのです。その切羽詰まった切実さの結果として、極めて精緻な絵画、彫刻、建築が次々に生み出された時代、それが中世です。 武力を使用することで必然的に生じた闇を神仏の光明で払いのけようとするときに、絵画や彫刻が大きな力を発揮した時代だったのです。
「中国に学ぶ」から「日本なりの美術」へ
──日本の美術は中世に至るまでどのように展開してきたのでしょうか?
山本氏:第一段階は6世紀半ばから8世紀までです。6世紀半ばに日本に入ってきた仏教という外来の思想と、これを表現する言葉や美術という新技術を中国大陸や朝鮮半島からひたすら学ぶ時代です。この時期には、日本独自のアレンジやオリジナリティはあまり見られません。この時期の日本の美術は、大陸様式のローカライゼーションの範疇にあります。
しかし、10世紀から11世紀に至ると、それまで中国一色だった文化状況に、和様化(和風化)と呼びうる変化が生じます。絵画や彫刻の中にも徐々に日本的な好みや主題が出てきますが、中国という規範をまったく無視するのではなく、手本をいかにアレンジするかを重要視する時代です。この時期の絵画にも、唐絵(中国風の主題:中国故事や風景、漢詩など)からやまと絵(和風の主題:日本の風景や物語、和歌など)が派生するといった新展開が見られます。
中世の日本美術では、平安時代までに蓄積された古典が、各時代の要請に適応した変化を遂げながら継承されました。古いものと新しいものを組み合わせたり、新しくアレンジしたりして、先人の達成に憧憬を抱きつつも、ただ真似るだけではない。ここに中世美術特有の面白さがあります。古典という規範を強く意識しながらも、時代の感性や合理性に合わせて大胆に換骨奪胎して文化が醸成されたのです。
中世日本人の知力
──中世の人たちと現在の私たちでは、どんなところが違うのでしょうか?
山本氏:現代に生きる私たちの多くが、自分が受けた教育や経験をもとに発想し、行動します。しかし、中世の知識人は人間の寿命をはるかに超えた、300年、400年の時間軸に自分を置いてものごとを考えていました。場合によっては、永遠の輪廻転生などという宗教的時間感覚が社会に浸透していたのです。それが文化面にも、また政治や経済の前提としても共有されていたのが中世日本の面白さです。
古典が自分たちの血や肉としてあって、どうすれば美しいのか、どうすれば雅なのか、どう振る舞うべきなのかの判断基準が、ともすれば何百年も前の一首の歌や、千年も昔の思想に求められてきたのです。
和歌には、過去の歌の言葉やモチーフ、情景を使って新しい歌を作る「本歌取り」という手法があります。 たとえば、室町時代のある歌人が新しい歌を本歌取りで詠んだとします。すると、それ自体は室町時代の作品なのに、歌の中には鎌倉、平安、奈良と、先行する時代や場のイメージ、人々の想いを盛り込むことができます。つまり、一首の中に「現在」と「過去」が同時に存在する重層的な世界をつくり出すことができます。
過去の作品のイメージやモチーフを引き寄せることで、「現在」に「過去」を重ねるというのは、和歌だけでなく、多くの文学作品、そして美術作品にも見られる手法です。こうした「過去と現在が同時に進行する」発想・考え方は中世のあらゆる文化に通じます。
中世日本を、迷信に満ちた後進的な社会と捉えるのは誤りです。文化的環境に恵まれて高い教養を獲得することのできた上層の人々だけでなく、神仏や妖怪が引き起こす奇蹟や怪異の存在を信じながら生きていた庶民も含め、現代の私たちよりはるかに複雑な思考プロセスに耐える強靭な知力を備えていました。
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