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- 2012/06/27 掲載
【ITビジネスと孫氏の兵法(2)】孫子の兵法と経営戦略
民主党参議院議員 藤末健三 ・フューチャー・デザイン・ラボ 後藤洋平
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『孫子』の著者 孫武
兵法書『孫子』の著者は、紀元前500年ごろに生きた人物で、当時新興国であった呉の王 闔閭(在位B.C514~496)に仕えた名将であり兵法家 孫武といわれる。孫武は、戦争の勝敗は、祈りや占いなど天運によって決まるとされていた時代に、戦争に勝つ理由、負ける理由を徹底的に分析し、論理的に戦争に勝つための戦略論「孫子の兵法」をまとめあげ、呉の勢力拡大に大いに貢献したのであった。孫武は春秋時代末の斉出身。若かりし頃から兵書に親しみ、黄帝と四帝の戦い、古代の伊尹、姜尚、管仲など過去の戦争を事例研究に努めていたという。紀元前515年、呉の王に闔閭が即位した際に、孫武と親交のあった呉の宰相の伍子胥が闔閭に「孫子兵法」を献上し、登用を提案したことから、孫武は呉の将軍として活躍することとなった。
史実として明らかになっていることは、紀元前512年から506年にかけての南方の大国であった楚国との戦いや、その後の秦や斉、晋などとの戦いである。楚との有名な会戦「柏挙の戦い」では、呉軍三万の軍勢を率いて二十万の楚軍を大いに破り、さらに進軍して五戦して五勝し、十日のうちに楚の首都・郢城を陥落させて楚の昭王を逃亡させた。強国・楚の大軍を圧倒的に少ない兵力で破ったこの戦いにより、孫武の名は中原に轟いたという。
なかでも、孫武の陽動作戦によって楚軍主力を別の地域におびき出し、十分な準備の整わない楚軍を撃破させた逸話はまさしく孫子兵法を彷彿とさせるエピソードである。
だがその後、楚の臣の申包胥が秦に逃亡し、彼の策によって秦が呉国を攻めたので、呉軍はやむなく楚から撤退した。
余談になるが、周辺諸侯との和平は孫子流兵法における重要なコンセプトの一つである。戦時中に周辺諸侯が裏切り、自国への介入や開戦が始まると、目の前の主戦場の維持が困難になり、いかなる策士もそのような状況に陥ると、起死回生の策はないのである。勝利の方法のみならず、敗戦のパターンについても自らの実戦で証明していると言えるこのエピソードは皮肉でもある。
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