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- 2020/04/27 掲載
池上彰が語る「挫折からの立ち直り方」、人生設計が崩れる瞬間からどう復活したのか
NHKの廊下で、自分の人生設計ががらがらと崩れた
報道局の記者は、40歳代になると、デスクという役職に就き、現場から離れます。現場の記者が書いてきた原稿を直したり、取材を指揮したりしますが、自分で取材することはありません。ただし、解説委員になると、自分で取材して解説する仕事ができます。NHKでずっと取材現場にいられるのは解説委員だけなのです。ですので、いずれ解説委員になりたいと思い、その希望を伝えていました。
ところが2004年、廊下でNHKの解説委員長に声をかけられました。「君は解説委員になりたいと希望しているようだけど、ダメだからね」と言うのです。
「ええっ。なぜですか?」
「君には専門分野がないだろう。解説委員は記者として専門分野を持っていなければ務まらない。『週刊こどもニュース』ではあらゆるジャンルを解説している。あの仕事は、専門性があるとはいえない。だから解説委員にはなれない」
これを聞いて愕然としました。NHKの廊下で、自分の人生設計ががらがらと崩れた瞬間でした。このとき、私は53歳。解説委員の道が閉ざされたとなると、もはやNHKにいても、現場記者の仕事はできません。
さて、どうするか。実は「週刊こどもニュース」を担当してまもなく、出版社から「ニュースを解説する本を書きませんか?」という誘いを受け、いくつか本を書くようになっていました。
私は記者ですから、原稿を書くのは楽しいこと。テレビに出るよりは本を書いているほうがずっと楽しいし、NHKを辞めてしまえば、取材だってできます。「よし辞めよう」と思ったところ、「週刊こどもニュース」のスタッフから、「新しい家族になったばかりだから、もうちょっと続けてくれ」と懇願されました。そこでもう1年待って、54歳で退職しました。
「現場で取材したい!」組織を離れ、フリーの道へ
退職を決めたとき、「本を書かないか」というオファーを出版社2社から1冊ずついただいていました。私は、「会社を辞めても年2冊くらいのペースで本を出していれば、つましい生活をしていけば何とかなるんじゃないか」と考えたのです。この気持ちを知り合いの出版社の編集者に伝えると、「日本でノンフィクション1本で食えるジャーナリストは五指に満たないぞ」と反対されました。フリーになることを決意した時点では、民放から声がかかっていたわけでもありません。それでも、「ああ、これで現場に取材に行けるぞ」という解放感が優先していて、なぜか怖くはありませんでした。
会社を早期退職された50代の男性が、ハローワークに行って職探しをしたところ、係の人から「何ができますか?」と聞かれて「部長ならできます」と答えたという笑い話があります。でも、これ、笑い話ではなくて実際にこういうやりとりが結構あると聞きます。
日本の大きな会社は、どこも終身雇用制でしたから、それぞれの会社の中に閉鎖的な生態系ができています。長年一つの会社に勤めていると、社内のどこにも知り合いがいて、企画を通すには、どこの誰にプッシュをすればいいか、根回しをどんな順番ですればいいかも、わかるようになります。つまり、その会社の生態系に完全に適応した人生を送ることができるようになる。
【次ページ】池上彰流「失敗を乗り越える方法」
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