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「ネットで情報をとるから本はいらない」という風潮が広がっているが、それは本当だろうか? 私たちは日々ネットの情報に触れるが、それだけでは「たどり着けない場所」も存在する。読書だからこそ身につく「著者の思考力」「幅広い知識」「人生の機微を感じとる力」とは何か。またそれを身につけるための読書術とはどのようなものか。
いまこそ本を読むべき理由
読書の楽しみや効用について、私はこれまでも繰り返し語ってきました。
いつの時代も、読書は素晴らしいものです。思考力を伸ばし、想像力を豊かにし、苦しいときも前進する力をくれる。自己を形成し、人生を豊かにするのに欠かせないのが読書です。その価値はずっと変わらないのですが、あえて「いまこそ」と言いたいと思います。「本を読まなくなった」とはずいぶん前から言われていることです。もう耳にタコができているという人もいるでしょう。
それで耳が痛いというならまだいいですが、「それがどうかしましたか?」と開き直っている人があまりにも多い印象です。
先日、恐ろしいデータを目にしました。「読書時間ゼロ」の大学生が過半数を超えた、というものです(第53回全国大学生活協同組合連合会による学生生活実態調査。53.1%が1日の読書時間を「ゼロ分」と回答)。
大学で教鞭をとっている者としてうすうす分かっていたことですが、数字を見るとやはり衝撃でした。理系の学生が本ではなく論文を読んでいて、実験や計算に多くの時間を使っているというのならまだ理解できますが、文系の学生も本を読まないというのですから驚きです。
では実際、本を読まずに、何をしているのでしょうか?
ネットで文章を読むことと、本を読むことはどう違うのか
読書をしていないとはいっても、文字を読んでいないわけではありません。むしろ、大量に読んでいる。その多くはインターネットだったり、SNSだったりするわけです。「本を読まなくても、ネットでいいじゃん」と言う人はいるかもしれません。
「すべてネットの中にあるではないか」と言われれば、まぁ、その通りです。毎日膨大な量の情報が追加されているネット上には、最近のニュースだけでなく古今東西のあらゆる物語や解釈や反応が含まれています。ネットの「青空文庫」では、著作権の切れた作品を無料で読むこともできます。ですから、わざわざ本を読まなくてもネットでいいじゃないかという意見も見当違いなものではありません。
しかし、ネットで読むことと読書には重大な違いがあります。それは「向かい方」です。
ネットで何か読もうというときは、そこにあるコンテンツにじっくり向き合うというより、パッパッと短時間で次へいこうとします。より面白そうなもの、アイキャッチ的なものへ視線が流れますね。ネット上には大量の情報とともに気になるキャッチコピーや画像があふれています。それで、ますます一つのコンテンツに向き合う時間は短くなってしまう。
最近は音楽もネットを介して聴くことが多くなっていますが、ネットでの「向かい方」ではイントロを聴いていることができません。我慢できなくて次の曲を探しはじめてしまいます。そこで、いきなりサビから入るような曲のつくり方をしているという話を、あるアーティストの方から聞きました。
現代人の集中力が低下していることを示す研究もあります。2015年にマイクロソフトが発表したところによると、現代人のアテンション・スパン(一つのことに集中できる時間)はたった8秒。2000年には12秒だったものが4秒も縮み、いまや金魚の9秒より短いと言います。
これは間違いなくインターネットの影響でしょう。とくにスマホが普及して、スマートフォンで常にいろいろな情報にアクセスしたり、SNSで常に短いやりとりをしたりするようになったことで、ある意味で「適応」した結果です。
「読者」がいなくなった時代
このようにネット上の情報を読むのと、読書とは行為として全然違います。ネットで文章を読むとき、私たちは「読者」ではありません。「消費者」なのです。
こちらが主導権を握っていて、より面白いものを選ぶ。「これはない」「つまらない」とどんどん切り捨て、「こっちは面白かった」と消費していく感じです。消費しているだけでは、積み重ねができにくい。せわしく情報にアクセスしているわりに、どこかフワフワとして何も身についていない。そのときは「へえ」と思ったけれど、すぐに忘れてしまいます。浅い情報は常にいくつか持っているかもしれませんが、「人生が深くなる」ことはありません。
これは情報の内容やツールの問題というより、「構え」の問題です。
著者をリスペクトして「さあこの本を読もう」というときは、じっくり腰を据えて話を聞くような構えになります。著者と2人きりで四畳半の部屋にこもり、延々と話を聞くようなものです。ちょっと退屈な場面があっても簡単に逃げるわけにはいきません。辛抱強く話を聞き続けます。
相手が天才的な作家だと、「早く続きが聞きたい」と言って寝る間も惜しんで読書をすることもあるでしょう。しかしドストエフスキーと2人きりになって3か月も話を聞かされ続けたりしたら、大概の人は逃げ出したくなります(やってみると最高なのですが)。実際、みんな逃げ出しつつあるわけです。
逃げ出さずに最後まで話を聞くとどうなるか。それは「体験」としてしっかりと刻み込まれます。読書は「体験」なのです。実際、読書で登場人物に感情移入しているときの脳は、体験しているときの脳と近い動きをしているという話もあります。
体験は人格形成に影響します。あなたもきっと「いまの自分をつくっているのは、こういう体験だ」と思うような体験があるでしょう。
辛く悲しい体験も、それがあったからこそ人の気持ちが分かるようになったり、それを乗り越えたことで強さや自信になったりします。大きな病気になったり命の尊さを感じる出来事があれば、いまこの瞬間を大事に思えるようになるなど、人格に変化をもたらします。
自分一人の体験には限界がありますが、読書で疑似体験をすることもできます。読書によって人生観、人間観を深め、想像力を豊かにし、人格を大きくしていくことができるのです。
読書よりも実際の体験が大事だと言う人もいます。実際に体験することが大事なのはその通りです。でも、私は読書と体験は矛盾しないと考えています。本を読むことで、「これこれを体験してみたい」というモチベーションになることはありますし、それ以上に、言葉にできなかった自分の体験の意味に気づくことができます。
実際の体験を何十倍にも生かすことができるようになるのです。
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