連載:中国への架け橋 from BillionBeats
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「工場」から巨大な「市場」へと、中国の世界経済における位置づけが変わったが、実際には、今もなお中国を「工場」とし、製造拠点を置く日系企業もある。だがその一方で、春節を前に工場の閉鎖が相次いでいるとの報道もあった。中国の製造の現場では、いったいどんなことが起きているのか。課題は何か。日系の工場に未来はあるのか。日系電機メーカー工場の元 総経理(経営者)が2015年から約1000日の経営で経験した「日系工場の日々」とは――。匿名を条件に赤裸々に語った。
聞き手:三宅玲子+BillionBeats
三宅玲子 [ノンフィクションライター] (Reiko Miyake)
ニュースにならない中国人のストーリーを集積するソーシャルプロジェクト「BillionBeats」(http://billion-beats.com/)運営。
2009〜14年北京在住。「人物と世の中」をテーマに取材。
本連載は、パートナーの西村友作(対外経済貿易大学教授)、大内昭典(投資会社勤務)をはじめ、BillionBeatsに寄稿する中国在住の各分野の専門家が、一般報道とはひと味違う切り口から持ち回りで執筆。
語り手
日系電機メーカーの工場の元 総経理(経営者)。大手電機メーカーを50代半ばで早期退職するまで、33年の会社人生のうち25年を中国で工場管理や経営、広報などに携わった。幅広い中国経験を買われ、ある電機メーカーから広東省・東莞(とうかん)工場の経営を託された。
「世界の工場」は東莞から始まった
私は2015年冬、現地の工場に赴任しました。工場のある東莞は、昨今キーワードとなっている広東省・深センに隣接する人口約210万人の町です。ただし、この人口は元から暮らす人たちで、出稼ぎで集まってきている人たちを合わせると830万人ほどにのぼるといいます。
東莞という町は、90年台に「世界の工場」となった中国を象徴する場所です。もともとはレイシ畑が広がっている田園地帯でした。
この場所が「世界の工場」となった背景には、次のような歴史があります。
中国では77年に文化大革命が終わると、新たに改革開放が始まるわけですが、89年には天安門事件が起こります。その後、92年に鄧小平の南巡講和が行われたのが深センでした。それを契機に深センがモデル地区として世界の工場という位置づけになったのです。
そこでは中国政府の施策のひとつとして、材料を香港経由で海外から工場に支給し、中国国内で完成品にして輸出し、工場には加工賃だけを落とす、「来料加工」という手法がとられました。当時は労賃が安く、また、品質の高い材料を中国でそろえることは不可能だったからです。
この製造モデルに、日本、台湾、韓国、香港の電機関連企業が多く進出しました。
その後、深センが現在のようなテック系企業の集積地になるにつれ、製造工場が周辺部に移転するようになり、東莞に工場が増えていきました。そうした工場進出により、もとから東莞に暮らしていた農民は、土地を明け渡すのと引き換えに莫大(ばくだい)な金を手にし、郊外の別荘地に移り住んだそうです。
工場だけではありません。ファーウェイが超巨大な研究センターをつくるなど、知的産業は東莞にも広がりを見せています。
手痛い歓迎
私が赴任した工場は、2000年に設立されました。ピーク時は3600人規模でしたが、リーマンショックをひとつの契機として、業績が下り坂になりました。
2015年に私が赴任した時には業績は回復していたものの、正社員350人、季節工350人という規模で稼動していました。
合計700人のうち、幹部社員と事務系社員が50人ほど。残りは工員で、ほとんど全員が隣接する湖南省や湖北省からの出稼ぎの農民工でした。正社員工員の平均年齢は35、6歳。平均年収は20,000元少々。ちなみに、中国の大卒初任給は、2018年は平均で約60,000元です。30代の工員は中卒がほとんどでした。
さて、そこで私は手痛い歓迎を受けます。
赴任した直後の4月、労働争議が起きたのです。理由は明確です。待遇不満でした。
中国の物価上昇に比して、会社側はほとんど給料をアップしていなかったのです。不満を持つのも当然とも思いました。
中国では物価上昇により生活コストが上がり、特に子どもの教育にかかる費用が急上昇していることを、本社も駐在の日本人社員も理解できていなかったのです。
私は本社と相談し、特に子育て世代である中間管理層の待遇を上げることにしました。部長クラスは据え置き、課長クラスが月額300元、係長が月額200元、というふうに昇給を決めたことで収束しました。1カ月ほどかかりました。
社員が労働争議という強硬手段に出た理由は、2つあります。
ひとつは単純に待遇への不満ですが、もうひとつは、この工場のありようには未来がない、どうせ先がないのなら、もらえるものをもらって辞めてやろうと、半ば見切っていたのです。
彼らが見切った理由は、来料加工の終焉(しゅうえん)と関わりがあります。
香港経由という地の利もあり、来料加工が可能だった東莞ですが、この手法での製造は国内の人件費が上昇するとともに次第にメリットがなくなり、政府も企業体質の変更を求めるようになりました。
また、深セン地区が最新テクノロジーの開発拠点として進化するにつれ、徐々に東莞にも、そうした開発エリアが広がり始めました。
深センの企業をはじめ中国企業には、日本企業が二の足を踏むような投資を行い、自動化による大量生産を行っている工場が多くみられます。しかし、ハイテクで自動化が進んでいるといっても、ひとつの生産ラインに10人配置するとして、50ラインあれば500人は工員の需要があるわけです。従来の製造工場よりそうしたハイテク工場の方が高待遇ですので、そちらに労働力が流れて行ってしまいます。
ファーウェイに代表されるようなハイテク産業や自動車産業の集積地である深センを中心に、東莞や広州では工員の需要が高まっています。
その結果、中国企業の工員の賃金はかなり上がっているのです。
【次ページ】市場を開拓しないまま中国に工場を持つと何が起きるのか
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