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  • 2014/02/17 掲載

フェンシング 太田雄貴 選手が語る、グローバル人材育成論 いかにして志を育くむか

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2020年夏季オリンピックの招致活動で、大きな存在感を示したフェンサーの太田雄貴氏(森永製菓)。フェンシング3種目のうちの「フルーレ」で、2008年の北京五輪では個人銀メダル、2012年のロンドン五輪でも団体戦で銀メダルを獲得し、日本における“フェンシングの顔”になった。その太田氏が現在のポジションを築くまでには、“唯一無二になりたい”という強固な信念があった。グローバル人材育成や組織開発を展開するアルー主催のセミナー「貫け、志 切り拓け、世界!」にて、元広告批評編集長の河尻亨一氏がファシリテーターを務め、太田氏とアルー 代表取締役社長 落合文四郎氏とのディスカッションが行われた。

小学校3年生の頃から“日本人初のメダリストになる”ことをイメージ

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太田 雄貴 氏
 太田氏がフェンシングを始めたのは小学校3年生の時。きっかけはフェンシングをやっていた父親から、スーパーファミコンを買ってあげるから始めないかと誘われたからだという。

 しかしフェンシングの中腰姿勢は結構きついし、周りにやっている友達もいない。最初は面白くなかったという。

「ただ始めに言われたのが、継続は力なりということ。1日休むと10日分、100日分下手になる。だから毎日練習しろと。結局小学3年生から大学3年生までの4300日間、1日も休まなかった」

 練習そのものが日常化してしまうという太田氏だが、そこまで続いたのには、フェンシングを始めた小学3年生の時、自分の中に気付きがあったからだと話す。

「この競技なら日本一が獲れる、そして日本人初のメダリストになる、自分はフェンシングでやっていくんだということを早い段階で気付くことができた。これは僕にとって何ものにも代えがたい出来事」

 そのきっかけになったのが、小学3年生の時に国内のオリンピック選手と試合をした経験だ。もちろん手も足も出なかったが、その選手はオリンピックでは一回戦で負けてしまった。

「それを見た時、少なくとも日本では向こう10~15年、この選手より強い人はそんなに出てこないだろうと思った。自分が日本人初のメダリストになれるのではないか、という自信が出てきた」

モチベーションは“唯一無二”になること

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 通常の小学3年生ならオリンピック選手と試合をした時、やっぱりオリンピック選手は強いなあ…という感想だけで終わってしまうのではないだろうか。

 しかし太田氏は、これが今の日本のレベルなら自分が日本初のメダリストになれる、と考えた。そんな方向に頭が働いたのは、なぜなのか。

「僕は“初モノ”が大好き」

 フェンシングはオリンピックの第一回大会から競技種目に採用されていたが、日本人でメダルを獲った選手はまだ一人もいなかった。

「そういうものを狙っていた部分があった」

 実際に太田氏の歩みを見れば、“初モノづくし”だ。2002年に全日本選手権で初めて優勝した時は17歳で史上最年少、同じ平安高校時代にはインターハイで3連覇を果たし史上初、さらに現在は史上最年少で、国際フェンシング連盟の理事を務めている。

「僕は人と一緒のことが凄く嫌い。“唯一無二”になりたい」

 2013年9月7日のIOC総会でのプレゼンテーションの席も、声がかかるのを待っていたわけではなく、自分から全身全霊を込めて“獲りにいった”という。オリンピックで自分と同じように2個のメダルを獲った人は、過去にも何人かいるが、これに“オリンピックの招致活動に参加”という要素を加えれば、この時点でもう太田氏一人だ。

 つまり太田氏は“唯一無二”の存在を目指して、目標を常にアップデートしていっているのだ。メダル獲得が最終ゴールではない。そして今の最大の関心事は、IOCの理事になることだという。

「日本人の一番の特徴は、ルールを本当にしっかり守ること。しかしルールそのものを作ろうとはあまり思わない。たとえばジャンプ競技なら、日本人が勝ち過ぎるからルールが改定されるというような報道のされ方をする。こうしたメディアの曲がった報道の仕方はすごく嫌いだが、そもそもの問題は、ルールを作る側に日本人がいないこと。環境変化に伴ってルールは変わって当然のもの。ルールに文句を言った瞬間、成長が止まる。だったらルールを作る側にもっと人材を送りこむアプローチをすればいい」

 “オリンピックでメダル2個”、“オリンピックの招致活動に参加”に加え、IOCの理事や、さらにIOC会長にまで到達すれば、まさに“唯一無二”だ。

「やはりそういうものを狙っていきたい」

IOC総会でのプレゼンテーションの裏にあった強い思い

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元広告批評編集長
河尻 亨一 氏
 ここでファシリテーターの河尻氏から太田氏に対し、IOC総会における英語でのプレゼンテーションについて、「あの素晴らしいスピーチも、何らかの志がなければできなかったと思うがどうか」という質問が投げかけられた。

「賛否両論あると思うが、僕は単純にオリンピックが日本に来ることの期待感や喜び感は、とてもお金には換算できないと思う。だからオリンピックを僕らよりも下の世代に見せてあげたいと思った。僕らの世代は1964年の東京五輪をもちろん見ていない。それを見ることができるというのは、何物にも代えがたい体験」

 そのために太田氏は、英語でのプレゼンテーションを完璧なものにするため、スピーチの練習を繰り返し行ったという。

「多様性を求めているIOCのメンバーで英語が第一言語の人は半数もいない。だからきれいな英語で話すと、逆に聞き取れない人がたくさんいる。だったら自分が聞いても分かる英語が一番いいと思った」

 そこで太田氏は、録音機能の付いたスマートフォンに自分の声を何度も何度も録音し、何度も何度も聞いたという。

「聞き取りにくい“r”のような発音には原稿に赤線を引いてチェックし、修正していく。そうすると一番聞きとりやすい英語になっていく」

 さらに太田氏の取り組み方は徹底している。

「一番状態の悪い時に話すことができたら、どんなに緊張しても話せるだろうと考えて、絶対にやってはいけないことだが、お酒を飲んでそのままシャワーを浴びて、お酒が回った状態で一度も噛まずに3回話せたら絶対に大丈夫、ということをした。それで前々日ぐらいに完璧になり、この時に少なくとも自分のパートだけは絶対に満点を取れるという自信を思った」

 また太田氏がプレゼンに当たって留意していたのは、スピーチだけではなかった。

「僕だけプレゼン中、画面を通して皆さんとずっと目が合っていたと思う。絶対に横を向かなかった。通常会場に向かって話をする時には、視線を振ってあげる必要がある。しかしIOCのプレゼン会場は非常に広い。だからIOCのメンバーは生のプレゼンターを見ないで、モニターの中の人を見る。だから僕はスピーチ内容を丸暗記して、カメラをずっと見続けた」

 さらにIOC総会でのプレゼンは、子供を持つお母さんたちに向けて行った部分もあるという。

「いくら子供たちにフェンシングは楽しいと言っても、お金を出して子供たちを通わせてあげるのはお母さんたち。だからお母さんに、太田選手みたいにスポーツをやって欲しいと思ってもらいたかった。フェンシング自体のブランディングも兼ねてあの場に立った」

【次ページ】グローバル人材育成のポイントは“群れから引き剥がす”こと
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