- 会員限定
- 2023/12/05 掲載
ヨドバシの「占領」を許したそごう・西武、買収は「ある意味必然」だった納得理由
連載:大関暁夫のビジネス甘辛時評
プラダジャパンの元社長を招聘した狙いとは
今回副社長に就任したダヴィデ・セシア氏は、プラダ・ジャパンの社長を約20年務めた人物です。そごう・西武は、海外ブランド畑のセシア氏の知見を、西武池袋本店内に入居する海外ブランドとの移転・補償交渉などに生かす狙いのようです。さて、そんなそごう・西武の歩みを振り返ってみると、今回の米投資ファンドへの売却に至るまでに、実は復権をかけた2度の「ターニング・ポイント」をモノにできずに今に至っているのです。
では、そのターニングポイントとは何でしょうか。1つずつ見ていきましょう。
そごう・西武にとって最初のターニング・ポイントは、2003年の同社経営統合によるミレニアムリテイリング・グループの発足でした。そもそもは、バブル期の多額の借金に押しつぶされる形で、2000年に民事再生法に基づく再生手続き開始を申し立てて経営破綻したそごうを、西武百貨店が支援するということからその関係は始まりました。
ところがこの支援、そごうの再生が見えた2002年ごろから今度は西武百貨店の財政問題が急浮上。2003年に約2,300億円の債権放棄による私的整理と相成って、金融機関主導での両社の統合による再建計画の遂行という形で推移せざるを得なくなったのでした。
旧そごうは、創業が江戸時代の天保年間にさかのぼるという老舗ではあるものの、関西の古着店がその起源。三越、大丸、高島屋、伊勢丹、松坂屋のような名門呉服店系ではなく、富裕層取引に縁の薄い大衆向け量販型の百貨店でした。
高度成長期においても、全国で3店舗と出遅れ感が半端なかった同社を一気に大手百貨店に押し上げたのが、日本興業銀行から転じた故水島廣雄社長でした。水島氏は都内一等地出店をあきらめ、レインボー作戦と銘打ってその周辺地域である横浜、千葉、大宮、八王子など、都心部を囲む戦略で大型店の出店攻勢をかけ、バブル期には全30店舗にまで拡大し売り上げ世界一を誇るに至りました。
旧そごうと旧西武はともに「大衆向け」
一方の旧西武百貨店は電鉄系でしたが、東急、阪急のような沿線に富裕層向け高級住宅地を持たない、典型的な大衆向け量販型百貨店であったと言えます。それを大きく発展させたのは、西武鉄道創業者堤康次郎氏の次男故堤清二氏。文筆家でもあった氏の「感性経営」で、渋谷西武やグループのパルコ、ロフトを若者文化のリード役的ブランドに成長させ、若い世代を中心とした大衆を大きく呼び込んで事業の拡大を図りました。
時まさにバブル期。出自が同じような立場にあったそごうと西武は、この時期に両社ともカリスマ経営者に導かれ、大衆を大きく取り込んで大発展を遂げたのです。
ところが、バブル経済の崩壊によって両百貨店のかりそめの繁栄は終焉を迎え、前述のように相次いで経営危機に見舞われたことで経営統合が進められたわけです。
ただ、そごうと西武の組み合わせは、ほかの名門呉服店系百貨店のような景気に左右されにくい富裕層という底支えを持たない百貨店連合でした。これはたらればになってしまいますが、もしこの時期に、そごうも西武もほかの名門呉服屋系百貨店との経営統合で別々の道を歩んでいたならば、現在のような苦境を免れていたかもしれないと思わず考えてしまいます。 【次ページ】百貨店はもう「時代遅れ」なのか?
関連コンテンツ
PR
PR
PR