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多くの産業に打撃を与えたコロナ。対面販売・値切りを特徴とする上野「アメ横」でも人出が1~2割まで落ち込み、商店街の店舗も撤退が相次ぐなど、大きな影響を受けた。上野観光連盟名誉会長の二木忠男氏は、「上野駅から御徒町駅まで約500mにわたるアメ横に、人が1人もおらず見通せるほどだった」と振り返る。とはいえ、コロナ前は順風満帆だったかというと決してそうではない。歴史をひも解けば、都内はどこも大手資本による再開発が相次いでおり、駅によっては顧客争奪戦に負けて衰退した商店街も少なくない。なぜ上野「アメ横」は昔ながらの商店街を残す稀有の街となったのか。また、コロナを経てどこへ向かうのか。前後編で追ってみたい。
聞き手・執筆:経済ジャーナリスト・経営コンサルタント 高井 尚之、写真:吉成 大輔
聞き手・執筆:経済ジャーナリスト・経営コンサルタント 高井 尚之、写真:吉成 大輔
経済ジャーナリスト・経営コンサルタント 高井 尚之
学生時代から在京スポーツ紙に連載を始める。卒業後、日本実業出版社の編集者、花王情報作成部・企画ライターを経て2004年から現職。「現象の裏にある本質を描く」をモットーに、「企業経営」「ビジネス現場とヒト」をテーマにした企画・執筆・講演多数。近著に『20年続く人気カフェづくりの本』(プレジデント社)などがある。
上野観光連盟が掲げる街づくりの3つの方針
コロナ禍からの上野再活性化を主導してきたのが、二木(ふたつぎ)忠男氏(上野観光連盟名誉会長、二木(にき)商会社長)だ。戦後の上野アメ横の発展に寄与し、「二木(にき)の菓子」や「二木(にき)ゴルフ」などを創業した二木(ふたつぎ)源治氏の息子でもある。
「上野は由緒ある建造物も多く、幕末から明治に移る戊辰(ぼしん)戦争の舞台ともなった土地です。文化施設も集積し、人気商店街もある。一言では説明できない魅力があります」
そう語る二木氏が、観光連盟会長に就任後に進めた3つの施策がある。
- (1)「山」と「街」と「駅」の連携で集客を図る
- (2)「パンダ」は上野最大の広告塔
- (3)「観光」への魅力は「環境」あってこそ
「上野は、山と街と駅の連携で集客を進めてきました。『山』とは上野の山(上野公園)で、上野動物園もあれば、東京国立博物館、国立科学博物館、国立西洋美術館などがある。教育機関の東京藝(げい)術大学もあります。ここまで文化施設が集まっているのは世界的にも珍しい。私はフランスのパリにある“モンマルトルの丘”に匹敵する存在だと思っています」
こう説明しながら胸を張る。現地に行った経験がある人ならご存じのように、上野の山は、石段で上り下りする程度の高さだが、それが逆に駅や街に移動しやすいのだろう。
上記の方針は、新任の長岡信裕会長(老舗焼き肉店「太昌園」を運営する大和寿商事社長)にも受け継がれている。
戦後の闇市にルーツ、地元主導「アメ横」誕生の背景
ここで、「なぜ上野は、地元主導で街づくりができるのか」も聞いてみた。
「自治の精神が根づいているのです。太平洋戦争で敗北後、空襲で焦土と化した都内では、新橋や有楽町など各地で闇市(やみいち)ができました。アメ横もその1つ。現在はJR上野駅と御徒町駅を結ぶ鉄道の高架下、それに並行する通りを中心に店舗が並びます。多くの闇市が的屋(テキヤ=露店や興行を営む者)の仕切りであった中、当時のアメ横では復員兵約400人が共同体となり、怪しい出店を統制しました。当時の商店主が自ら行動したのです」
二木源治氏もその1人で、深川(現在の江東区)で八百屋を営んでいたが、兵隊にとられ中国大陸で軍務に就く。終戦後に帰国してアメ横(御徒町駅側)で商売を始め、アメ横商店街連合会の会長も務めた。現在、アメ横センタービルがある場所(上野駅側)も終戦直後は無法地帯。地元当局が、実業家・近藤広吉氏に頼んで「近藤マーケット」を作ってもらい、怪しい者を排除して出店させて以降、正常化した。
商店街にそうした歴史があり、有名建造物も多いので、大規模な再開発には向かない。
自治の精神のもと戦後順調に発展してきたアメ横だが、2020年を迎えコロナ禍が影を落とす…。
【次ページ】外出自粛で「アメ横」は戦後最大の危機に
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