連載:キャラクター経済圏~永続するコンテンツはどう誕生するのか(第23回)
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2024年に生誕50周年を迎えた「ハローキティ」は、顕在化している売上だけでも世界トップクラスのキャラクターである。一般的に、キャラクターのヒットは漫画やアニメ、映画とともに作られていくが、それとは異なる路線を走るハローキティは、なぜこれほど世界中で愛されているのか。サンリオの戦略の変遷とともに、筆者が試算したハローキティの年別売上の推移を見ていきたい。
最強キャラ企業「サンリオ」と「ソニー」の意外な関係
ハローキティの生みの親であり、サンリオ創業者の辻信太郎氏(1927年生まれ)は、もともと山梨県庁で働く公務員であった。1960年の退職後、山梨県庁の外郭団体であった「山梨シルクセンター」を独立・起業する。これが、サンリオのはじまりだ。
辻氏の創業初期の異名は「いちごの王さま」。1962年に「いちご」をデザインにしたハンカチがよく売れ、それが会社のアイコンとなったからだ。その後、“かわいい”モノを集めようと、1965年頃に天才画家としてマスコミに取り上げられ始めた水森亜土氏のキャラクター「亜土ネコミータン」を伝統工芸品の陶磁器と組み合わせた。今の時代に例えるなら、「ちいかわ」で歌舞伎をやるような大胆な取り組みであったが、それがよく売れた。
この成功に加え、
アンパンマンの作者やなせたかし氏 や、漫画「小さな恋人」などで知られるトシコ・ムトー氏など、外部デザイナーを起用し、「キャラクター・ギフト」と謳い市場を開拓した。この流れの中で、「スヌーピー」の名で知られる海外の人気キャラクター「ピーナッツ」(作者:チャールズ・M・シュルツ)にも目を付け、ライセンス契約を結び、大成功を収める。
このように、外部のデザイナーを協力しながら成功を収めていたサンリオは、その後、キャラクターデザインの内製化を目指し、キャラクターづくりのヒントを得るため人気動物の市場調査を始める。当時、ユーザー人気の高い動物は1位がイヌ、2位が白いネコ、3位がクマであった。
イヌのキャラクターは宗教上の問題から避け、2番目の白いネコをキャラクターにすることにした。こうして社内のデザイナー清水侑子(楠侑子氏)氏と創り上げたのが、後の「ハローキティ」である(出典:上前淳一郎.サンリオの奇跡 世界制覇を夢見る男達.PHP,1979年、ボクらを作ったオモチャたち シーズン2「ハローキティ」.Netflix オリジナル作品,2018年)。
そうした中、同社は1973年に社名を変え「サンリオ(聖なる河)」と生まれ変わっている。1955年にほとんど海外売上もたっていない東京通信工業の社名を「ソニー」に変えた盛田昭夫氏と同じように、世界に轟かせるという高い目標をベンチャー時代から持っていたのだ(当時ソニーが日本で初めてカタカナを使った社名にしたと言われている〈出典:盛田昭夫.MADE IN JAPAN.朝日新聞社,1987〉)。
辻氏は、そのソニーを強烈にベンチマークし、日本に冠する企業を作り出そうと必死だった。社員デザイナー第一号の稲垣美津江氏は、当時の状況を次のように回想している。
「とてもきたない事務所で、壁に『ソニーに追いつけ』とか『目指せ年商10億円』なんて書いてあるんです。夜は社員を集めてシューベルトだよ、みんなで聴こうなんて社長がいうんです。会社というより、学校のサークルの事務所みたいでした」
(出典:西沢正史.サンリオ物語.サンリオ,1990年)
売上「18億円→323億円」に急増、サンリオは何をしかけた?
この時期、会社として米国展開と映画産業への参入を進める。辻氏はディズニー製作のアニメ映画『ファンタジア』(1940年)に魅了され、米国出張中にディズニースタジオを訪れる。そこで、これからは情報産業・映像の時代だと確信し、1974年、ロサンゼルスにサンリオ・フィルムを設立する。
生成AIで1分にまとめた動画
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こうして1975年のやなせたかし氏原作のアニメ映画『ちいさなジャンボ』(1977年)を皮切りに『キタキツネ物語』(1978年)など、合計7本のアニメ映画を50億円以上も投じて製作した。このうち『愛のファミリー』(1977年)は日米合作であり、はじめて米国のアカデミー賞にも輝いたが、収支としては7本すべてが赤字だった(その後、1980年代後半にサンリオ社の米国展開は多くの失敗を重ね、ニューヨークオフィス閉鎖。米国事業はカリフォルニアに集約されることになる〈出典:ケン・べルソン、ブライアン・ブレムナー. 巨額を稼ぎ出すハローキティの生態. 東洋経済新聞社, 2004年〉)。
それでも辻氏は諦めることなく、その後も日米合作映画『星のオルフェウス』(1979年)を作っている。製作段階においては脚本は伊丹十三氏、主題歌はロックバンド「ローリングストーンズ」のミック・ジャガー氏(※日本公開前に差し替えられる)という豪華さだ。国内で稼いだ利益を丸々1本の米国映画に突っ込むような荒行だったのだ(出典:「星のオルフェウス」制作秘話と、ロスで手塚先生のお手伝いをした話.アニメハック. 2018年7月11日)。
サンリオにとっては1973~1975年の時期が会社としての転機と言える。社名を変え、ハローキティが生まれ、米国進出して映画を作り、そしてオイルショックが飛躍的成長の契機となる。1971年からリスク度外視で関連グッズを販売する直営店「Gift Gate(ギフトゲート)」を展開、驚くべきことに辻氏は三越の社長の岡田茂氏を口説き落とし、日本橋の正面玄関ライオン像の前に30坪の専用店舗を構えた。
デパート全盛期の時代、しかもセレクト商品の敷居が高かった三越において「雑貨」のような低単価商品で店舗を構えた事例は後にも先にもこのサンリオ以外にない。
オイルショックであらゆるモノの価格が高騰していく中、辻氏は「金額を上げない」決断をした。それが価格に敏感な子供の間で商品が話題になり、店舗にファンが殺到する。こうしてサンリオの売上は18億(1973年)→47億(1974年)→92億(1975年)→196億(1976年)323億(1977年)と、たった5年間で約20倍にまで信じられないほどに成長、その旗手になったのはもちろん「ハローキティ」である(出典:西沢正史.サンリオ物語.サンリオ,1990年)。
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