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  • 2017/02/22 掲載

在ベトナムのレストラン経営者に聞く、ホーチミンとハノイで学んだ「起業」ノウハウ

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1月、安倍晋三内閣総理大臣はアジア太平洋地域4か国歴訪の最後にベトナムの首都ハノイを訪れた。ベトナムのグエン・スアン・フック首相はかねてから、日本を長期的かつ最も重要なパートナーとして考えており、東南アジア3位の人口を擁する成長著しいベトナムへの関心は、ますます高まっている。一方、ベトナム人の国民性や現地でのビジネスの実態については、知られていない面もある。そこで、ベトナム生活が長く、現在ハノイでレストラン「PéPé la poule(ペペ・ラ・プール)」を営むオーナーシェフの増田 悠氏に、現地の店舗にてインタビューした。文化のまったく異なる異国という条件下で、ビジネスを立ち上げ、うまく根づかせるカギはどこにあるのだろうか。
エクシール・エフ・エー・コンサルティング 大塚 賢二

エクシール・エフ・エー・コンサルティング 大塚 賢二

東京大学法学部卒。金融機関、Big4系列コンサルティングファーム勤務等を経て現在、株式会社ファルチザン(http://financialartisan.com)の代表として、エクシール・エフ・エー・コンサルティングの中小企業、スタートアップ組織、個人事業者向け海外進出支援事業に取り組んでいる。公益財団法人日印協会会員。ニューハンプシャー州公認会計士。日本CFO協会グローバルCFO(米国CTP)。

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レストラン「PéPé la poule」最上階テラスにてインタビュー
オーナーシェフ 増田 悠氏(右)


後編はこちら

きっかけはボランティア

――増田さんは、どのようにベトナムに関わり始めたのですか。

増田氏:2010年7月に、1年の期限付きボランティアとしてハノイに来たのがきっかけです。川に架かる橋の下に住んでいる子どもたちのために、ボランティア有志で作った学校で食事を作ってあげたり、登下校のためバイクに乗せてあげたり、子どもたちの通学や就職に必要な出生証明書の取得の手続きをサポートしたりしていました。

――当時の話を、もう少し聞かせてください。

 当時はボランティアハウスにメンバー15人で住んでいました。2段ベッド付の6畳くらいの部屋に6人でした。男も女も関係なく1つの部屋です。メンバーの国籍もさまざまでした。15人全員国籍が違うなんて時期もありました。

 英語はできなかったのですが、とにかく何かしゃべるしかないと思い一生懸命コミュニケーションを取りました。8カ月くらい経ったころ、ペペというフランス人女性とボランティア団体を立ち上げたりもしました。当時は楽しく充実した日々でしたね。

 結局1年後にいったん帰国しましたが、そのとき既にハノイに戻ろうと心に決めていました。日本では、1年弱くらいアルバイトをしてお金を貯めながら、周囲の人に「ハノイに行きたい」と言い回って再度ハノイに行くチャンスを伺っていました。

 そうしているうちに、ホーチミンに店を出すという日本人のレストランオーナーから声がかかったのです。ホーチミンにはまったく興味がなかったのですが、ベトナムで「働いた」ことがなかったので、ベトナムのレストランで働いたり店を運営したりするノウハウが身につくと思い、2年契約でなら、ということで、マネージャーとしてホーチミンの店を任されることが決まりました。

――増田さんは、もともとベトナムに行く前は何をされていたのですか。

増田氏:18歳から29歳までレストランで働いていました。うち4年間はコンラッド東京で高級中華を作っていたこともあります。レストランで働いているときは中華を出し、休みの日にはイタリアンやスペイン料理の厨房でアルバイトをしていましたね。それが今のレストランのスタイルにつながっているのですけれども。

――ホーチミンのお店は、うまくいきましたか。

増田氏:成功だったと思います。昼はランチ、夜はバー、ディナーというスタイルで、朝10時に入って深夜の2時3時まで働くという感じでした。やはりハノイに出たいという夢があったので頑張れたのだと思います。

 厨房から経理まですべてマネージャーの立場で任されていました。店員は全員ベトナム人。お客さまは日本人が中心でした。オーナーは共同で4人いたのですが、彼らは意見が合わないときもありましたし、何しろ現場を知らないですからね。

 その頃の自分は、オーナーたちに対して「現場を分かってないくせに」という気持ちでした。結果を出さないといけないというプレッシャーもありました。自分で店を持った今では彼らの気持ちも分かるところがあり、オーナーさんたちには感謝しています。いまだに、お客さまがホーチミンからハノイに来てくださいます。自分の名前も、ホーチミンでそこそこやれたおかげで知られるようになりました。

ベトナムの南と北は、日本人が思っているより溝が深い

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南のホーチミンと北のハノイはこれだけ離れている
――ホーチミンの次にハノイ進出ですね。

増田氏:ホーチミンからついてきてくれた4人のベトナム人スタッフと一緒に2~3か月準備した後、2014年5月、ハノイにこの店をオープンしました。ホーチミンでうまくいったおかげで、開店当初から今まで、ずっと黒字を維持しています。遠回りのようでしたが、ハノイに来る前にホーチミンで経験と実績を積んだのが実は最高の近道だったとも言えるでしょう。

 しかし、1つ言いたいのは、南部のホーチミンの人が北部のハノイに移るというのは、実は非常に大変なことなのです。

――そうなのですか。ちょっと日本人にはわかりにくい感覚です。どうしてですか。

増田氏:国土を南北に二分したベトナム戦争終結から、まだ40年くらいしか経っていない。スタッフの祖父や父親の世代は互いに「南の人間は」「北の人間は」と言い合う感覚が、まだ残っていますね。彼らの心情としては戦争が続いていると言ってもいいと思いますよ。

 それでも北部の人間が南部に移り住むのは、まだ見られるのですが、南部から北部に移り住むのは本当に大変です。ホーチミンから来てくれた4人のうち、いま残っているのは1人だけです。南部に住む年長の世代が北部に持つ複雑な感情は、彼らにも刷り込まれているのでしょう。

 それに方言も違います。気候も違います。ここハノイはホーチミンに比べると曇りの日が多く、どんよりしています。南部から来た人が北部に住み続けるのは相当つらいと思いますよ。

 4人には、ホーチミン時代に日本流のサービスを厳しく教えたので、こちらに来てくれてからは、みっちり従業員教育をしてくれて実に助かりました。おかげで自分は料理作りに専念できました。考えてみれば4人はイヤな役回りですよ。南部から来て現場を仕切るという立場上、他の従業員からは嫌われることもあるでしょうし。

 4人は最初はやりがいをもって取り組んではくれましたが、慣れないハノイで環境が合わず友達もできなかったから、1人を残して全員帰ってしまいました。1人だけ残っている従業員は、日本語を自分で勉強するし、非常に熱心で、マネージャーを任せています。

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