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  • 【武田知弘氏インタビュー】戦国時代は経済戦争の時代でもあった――織田信長の野望と手腕を読み解く

  • 2011/08/05 掲載

【武田知弘氏インタビュー】戦国時代は経済戦争の時代でもあった――織田信長の野望と手腕を読み解く

『織田信長のマネー革命』著者 武田知弘氏インタビュー

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各地の有力者が無数の合戦でしのぎを削った戦国時代。その時代は、経済の面でも群雄がそれぞれ戦略を立て、火花を散らしてもいた時代だった。華々しい合戦ではなく、そのような経済における戦いに目を向けた『織田信長のマネー革命 経済戦争としての戦国時代』(ソフトバンク新書)は、歴史を通じて現代にも通ずる問題を扱っている。経済戦争を繰り広げていた戦国時代、そしてその時代の最大のヒーローである織田信長について、本書の著者である武田知弘氏にお話を伺った。

偉大なる経済人・織田信長!?

――まず織田信長という人物に注目したきっかけをお教えいただけますか?

 武田知弘氏(以下、武田氏)■織田信長は、日本史の中で特異な存在です。日本人はスタンドプレーをあまり受け入れず、指導者でも、根回しや集団指導ということが重視されます。しかし、信長は、日本人の中では珍しく独断専行の人物です。それが信長の急激な改革を可能にし、一方で、本能寺の変にもつながったのでしょう。日本史においてターニングポイントを作った人物であるわけですね

 信長は戦国時代に1つのけじめをつけ、社会制度、経済なども大きく変革しました。日本の社会を中世から近代に導いた人物といえます。豊臣秀吉や徳川家康は、信長が作った方向性を微調整したに過ぎないと私は考えます。そして信長の行った改革は、後の日本を形作ったといえます。今の経済大国日本の原型は、信長にあるともいえるのです。そういう点で、信長の非常に興味がありました。

――本書は信長や戦国時代について軍事面ではなく、経済に焦点を絞って論じた内容となっております。その狙いはどのあたりにあるのでしょうか?

photo

『織田信長のマネー革命』

 武田氏■日本の経済史を見た時、織田信長の存在がけっこう大きいのです。信長といえば、軍事力に優れたというイメージがありますが、実は経済においての功績は無視できないものがあります。日本の中世の経済、流通史を見た場合、信長の名前が普通に出てくることが多いのです。たとえば枡の統一を中央政権で行ったとか、ですね。そういうことはあまり世間に知られていない。なので、それらについて徹底的に追求してみようと思ったのです。また経済的な観点からすれば、信長の本意が見えてきたりするのです。まったく別の意味が見えてきます。信長の行動は、後世の我々からすると理解できないことも多々あります。でも、経済的な観点を用いることで、それが理解できるようになることがあるのです。

 たとえば、信長は比叡山延暦寺を焼き討ちしました。この行為について、我々は、「信長は宗教を軽んじ、自分の言うことを聞かない者に残虐な仕打ちをする」と考えがちです。しかし、当時の比叡山延暦寺というのは、大財閥とでも言うべき巨大な存在であったわけです。その頃の比叡山延暦寺は、日本中の金貸し業の元締め的な存在でもありました。現在の消費者金融よりもはるかに高い利率で、公家や庶民に金を貸し付け、返済不能になったものからは土地や資産をとりあげ、それは社会問題にもなったのです。中世、借金の棒引きをする「徳政令」は何度も出されていますが、それは比叡山などの金融業者勢力への対抗処置の側面もありました。また比叡山延暦寺は金融業だけではなく、商工業、運輸業なども取り仕切っており、当時の日本の富のかなりの部分を集めていたのです。

 室町幕府などにとっても寺社はやっかいな存在でしたが、「神に仕える存在」なので、なかなか手を出す事ができない。それを信長は果敢に、除去しようとしたわけです。もし、信長が寺社を徹底的に叩いていなければ、中世から近代における日本経済は、寺社の影響力がもっと大きくなっていた可能性も高いでしょう。

――織田信長が経済的背景をフル活用して、長篠の戦いに臨んだことがこの本では論じられていますが、信長に限らず当時の戦国大名はかなり経済力を重視していたと見ていいのでしょうか?

 武田氏■はい、そうです。戦国時代は、激しい経済競争の時代だったともいえます。軍事力の争いは、経済力の争いでもあります。より多くの兵士を動員するためには、より有効な武器を調達するためには、経済の発展が必須条件だといえます。経済に弱い戦国大名は、軍事力も弱かったといえます。武田信玄にしろ、上杉謙信にしろ、経済に非常に強かった。武田信玄は、他の大名に先駆けて判金(大判、小判の原型)の製造を開始し、体系的な貨幣制度を作ろうとしましたし、上杉謙信は、柏崎と直江津の2つの港から莫大な収入を得ていました。

 戦国大名たちが争った領地にしても、まず経済上の重要拠点を取りあっているケースが多いのです。ただ単に領地を増やそうということではなく、経済効率を考えていたのです。たとえば、桶狭間の合戦も、実は経済の要衝地を巡る争いだったといえます。当時、尾張の知多半島は、日本中に知られた陶器の名産地でした。陶器は当時の工業製品の花形であり、今で言うならば自動車産業のようなものと言ってもいいかもしれません。桶狭間は知多半島の付け根にあり、ここを押さえたものが知多半島を押さえることができる、という重要地点だったのです。今川義元は、それを狙っていたわけです。

――織田信長以外にも武田信玄や豊臣秀吉など、戦国時代の群像が本書では取り上げられていますが、武田さんがこの時代で個人的に興味を持たれている人物は信長の他にもいますか?

 武田氏■この時代の人は、いろんな人が非常にユニークな人生を歩んでいるので、興味を持っている人物はたくさんいます。たとえば、真田昌幸。彼も軍事的な策謀家として知られていますが、真田家は「真田紐」という特産品を発明するなど、経済政策的にも優れた面があると思われます。

 また中国地方の大内義隆にも非常に興味があります。周防の守護大名ながら、日本の貿易の要所を押さえ、一時期は日本で最大の経済力を持っていました。大内は、山口を京都のような都にしようと都市建設を行いました。その結果、山口は今でも「小京都」と呼ばれています。当時の山口には、京都の戦乱から逃れてきた公家や文化人も大勢いました。このように隆盛を誇った大内家も、謀反によってあっけなく滅亡してしまいます。しかし、この謀反の背景には、大内義隆の経済政策的な失敗があると私は考えています。そういったさまざまな点からも論じ甲斐のある人物ですね。

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