1
会員になると、いいね!でマイページに保存できます。
百貨店としては61年ぶりとなるストライキが行われる中、そごう・西武の投資ファンドへの売却が決まった。西武百貨店はかつてセゾングループの中核となっていた企業であり、戦後日本の消費社会に大きな影響を与えてきた。今回の売却劇は、戦後の日本社会が、いよいよ大きな転換点に差し掛かっていることを示している。
文化を売る業態
百貨店は、日本の経済成長と共に発達した業態である。百貨店に行けば、それなりに質の高いモノが一通り揃い、百貨店での買い物そのものが文化であるというイメージ戦略は、戦後の焼け野原から急速に豊かになった日本社会に見事にマッチしていた。
実際に百貨店を訪れるとよく分かるが、道路に面した1階は、大抵の場合、化粧品や海外大手ブランドのテナントが並び、文化的で高級感のある造りになっている。これはいわば百貨店の顔であり、ここでお店のイメージを確立し、多数の顧客を引き寄せて、上階の売り場に誘導していく。一方、百貨店の上階には催事場と呼ばれる場所が確保されており、展覧会など文化的な催しが行われる。こうした文化イベントを目当てにやってきた顧客を、今度は階下の販売フロアに誘導していく。
つまり文化を軸に顧客を引き寄せ、下から上、上から下という顧客の導線を確保し、多くの商品販売につなげていくのが百貨店の基本戦略であった。百貨店に行けば、大抵のものが手に入ると同時に、文化的な情報発信を通じて、「このようなライフスタイルが今のあなたにはぴったりですよ」というアドバイスも受けられるという点で、いわゆる提案型ビジネスの先がけでもあった。
西武百貨店は80年代に入ってセゾングループという企業集団を形成するようになり、百貨店が持つ文化的な側面をさらに強化し、より広範囲な文化領域に進出することで、バブル時代の日本社会に大きな影響を与えた。
セゾングループでは、いち早く海外ブランドのテナント誘致を行うと同時に、ケンゾーやイッセイミヤケ、コム・デ・ギャルソンなど国内デザイナーズ・ブランドを積極的に取り上げ、並行して、パルコに代表される、いわゆるファッションビルの業態を開発。80年代に入ると洗練された生活雑貨を提供するロフトや無印良品など次々と新しい店舗や商品を生み出した。
同社の拠点となっていた池袋周辺では、一連の大型店舗に加え、セゾン美術館や、美術専門書を扱うアール・ヴィヴァン、洋書に強いリブロなど、個性的な小規模店舗が集積し、地域全体の文化性で収益を上げるというスタイルが確立した。こうした文化戦略はCMなど情報発信にも及び、「おいしい生活」のキャッチコピーを生み出した糸井重里氏など、同社を起点とした文化人を多数輩出するに至っている。
今回の売却に際し、豊島区長など自治体の首長や商店会など地域の関係者から相次いで懸念の声が上がったのも、セゾングループの歴史と無関係ではないだろう。
戦後の日本社会に欧米的な消費生活をもたらした百貨店という業態は、80年代バブルの波に乗り、セゾングループがポストモダン的な展開を行うことでひとつの完成形を見るが、これらの文化戦略はバブル崩壊による経営悪化とともにあっけなく崩壊することになる。
何からはじまった?そごう・西武の転落
セゾングループは、海外のホテルチェーン買収や不動産開発の失敗により莫大な負債を抱え、各企業がバラバラとなり、グループは解体された。セゾングループの中核企業だった西武百貨店はそごうと経営統合し、これが現在のそごう・西武の母体となっている。
その後、そごう・西武はセブン-イレブンやイトーヨーカドーを展開するセブン&アイ・ホールディングスの傘下に入り、セブン・グループ内での再建を目指したものの、グループ内でうまくシナジーを発揮することができず、直近では4期連続の赤字に陥っている。
セブンはセブンで、海外投資家から本業のコンビニに集中するよう強い圧力を受けており、そごう・西武を運営する余裕がなくなってしまった。結果として同社は海外ファンドに売却する決断に至ったが、海外ファンドにとっても、そごう・西武の引き受けは簡単なことではない。
その理由は、企業の個別の事情とは別に百貨店という業態そのものが、日本において成立しにくくなっているからである。
【次ページ】百貨店という業態が通用しなくなった理由
関連タグ