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  • 2022/03/05 掲載

千代田区、中央区、港区の「都心3区」はどう生まれたのか?

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新型コロナの影響でやや緩和されたものの、日本ではここ数十年にわたって「東京一極集中」が進展しています。中でも千代田区、中央区、港区の3区は「都心3区」とも呼ばれ、政府機関や大企業の本社、金融機関などが集中し、住んでいるのも富裕層ばかりです。ではこの3区はどのような歴史から現在のような“都会の象徴”となっていったのでしょうか? 「日本一生徒数の多い社会科講師」としても知られる伊藤 賀一さんに解説してもらいました。
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千代田区にある日比谷公園。千代田区は皇居をはじめ、緑も多いのが特徴だ
(Photo/Getty Images)
※本記事は『歴史と地理がいっきにわかる東京23区大全』を再構成したものです。

千代田区の歴史

 平安時代の武家、桓武平氏の平良文流の秩父氏支流である江戸氏が、現在の皇居に館を築いた。平良文流の秩父氏は、蒲田氏、川崎氏、渋谷氏など現代も残る地名を名乗った一族だが、14世紀後半からの戦乱の中で江戸氏や豊島氏、品河氏などが没落した。

 江戸城が初めて築かれたのは室町時代の1457年、関東管領扇谷上杉氏の執事太田道灌によるものだが、当時は古河公方足利氏に対抗するための拠点だった。その後、北条早雲に始まる後北条氏5代の支配を経て、豊臣秀吉に攻められて滅亡した後の1590年、徳川家康が関東に国替えとなる。家康によって江戸城は大改修されるとともに、江戸城を中心とした江戸の街づくりが始まった。

 家康による都市整備には風水が取り入れられている。その際、家康のブレーンとして活躍した天台宗の僧が南光坊天海。天海は、江戸城の鬼門と裏鬼門に寺社を置いて災いから守った。鬼門、すなわち北東の方角には上野の寛永寺を置き、天海自らが住職を務める。さらに隣には、上野東照宮を建立し、家康を東照大権現という神として祀るなど、少し離れた浅草寺とともに鬼門鎮護を厚くした。また邪気の通り道とされる反対側の南西、裏鬼門には芝の増上寺を置く。このような「鬼門封じ」「裏鬼門封じ」をより厚くするために、天海は大手町付近にあった神田明神(のち神田神社)を湯島に、三宅坂上にあった山王権現(のち日枝神社)を赤坂に移した。これらは、浅草寺・寛永寺・上野東照宮・神田明神→山王権現・増上寺と北東から南西へ並んでおり、その中間に江戸城が位置している。

 江戸三大祭りとされる神田明神の神田祭、浅草寺の三社祭、山王権現の山王祭には、江戸城の鬼門と裏鬼門を浄める意味もあったと言われており、江戸の外にも栃木県の日光東照宮と静岡県の久能山東照宮まであるように、「鬼門封じ」「裏鬼門封じ」の徹底ぶりがうかがえる。

 そんな江戸城を中心として、江戸の街はロンドンやパリに比肩する世界的な大都市(江戸時代後期には100万人を超えて人口世界一)へと発展するわけだが、江戸城の背後、麹町台地には将軍直属の旗本屋敷が置かれ、その周囲に大名の藩邸を配置するなど、江戸が武装都市、軍都であったともいうことができる。

 江戸時代、現在の丸の内オフィス街には多くの大名屋敷があったが、多くは1855年の安政江戸地震で焼失した。明治維新後には陸軍の施設が一時あったが、移転後は荒れ地となっていた。

 そこで、1890年、財政難に陥っていた当時の明治政府が、資金調達のために丸の内の広大な土地を売りに出したが、当時の相場よりはるかに高いもので、なかなか買い手がつかなかった。そんな土地を128万円で購入したのが、土佐藩出身の実業家・岩崎弥太郎が創業した三菱だった。

 当時、弥太郎はすでに亡くなっており、購入を決断したのは、2代目社長として「三菱財閥」を確立した弟の弥之助だった。あまりに巨額の投資だったため身内からも批判を浴びたが、「国家あっての三菱です。お国のために引き受けましょう」と決断。今や、丸の内は、大正時代に辰野金吾が建てた東京駅の真ん前に位置する一等地中の一等地だが、この時の弥之助の決断と、ロンドンを模した赤レンガ造りのオフィス街「一丁ロンドン」へとつくり変えるという実行力があったからこそ、と言うことができる。

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東京駅周辺。日本を代表する場所と言えるだろう
(Photo/Getty Images)

 その後、千代田区を含む東京府東京市(1943年からは東京都特別区)の中心部は、1923(大正12)年9月1日の関東大震災と、1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲によって大きな被害を受ける。

 関東大震災の後、第二次山本権兵衛内閣の内務大臣・帝都復興院総裁となった後藤新平(前東京市長)は、100年後を見越した都市構想を練り、それに基づいて大規模な幹線道路を整備、区画整理も進めたことで、東京は近代都市へと生まれ変わることになった。

 だが、第二次世界大戦後の復興はこの時とは少し違っていた。終戦間近の1945年春、戦災復興計画がまとまった。そして終戦後、帝都復興計画案ができるが、そこに描かれていたのは、100メートル広幅道路、区部の3分の1を覆う緑地地帯、大学誘致を兼ねた風致保存地区の指定、将来の高速道路も兼ねた防火区域のグリーンベルトなど、「緑と文化にあふれた夢のような都市」像だった。

 だが、当時の日本には人も資金も圧倒的に不足していた。さらにGHQ〔連合国軍総司令部〕が莫大な予算を使う計画に難色を示したため、「復興」計画は繁華街や駅前の「復旧」へと転換した。その結果、1955(昭和30)年からの高度経済成長期で東京は急速に発展を遂げたものの、都市計画は後追いにならざるを得なかった。令和の今、丸の内や大手町エリアでは大規模な開発が進められているが、目指しているのは10年後、100年後の東京ということになる。

【次ページ】中央区、港区の歴史
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