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2019年3月21日、イチロー選手(45歳、本名・鈴木一朗)が引退を表明しました。84分にも及んだ会見の中で、イチロー選手は「今日のあの球場でのできごと、あんなものを見せられたら後悔などあろうはずがありません」と発言しました。その引退会見から3週間以上がたちました。本稿では改めて、数々の記録と記憶を残してきたイチロー選手の野球人生を振り返るとともに、超一流のプロフェッショナルから学ぶべき点を見ていきたいと思います。
「プロ野球選手になりたい」と願い続けた子ども時代
イチロー選手は1973年10月22日、名古屋市守山区で生まれてすぐに愛知県西春日井郡豊山町に転居。小学校時代は地元の少年野球チーム・豊山町スポーツ少年団に所属、エースで4番として活躍しています。
豊山中学校に進んだイチロー選手はエースで3番として活躍、中学3年の時には全日本軟式野球大会に出場、3位入賞を果たします。愛知県内の多くの高校から誘いが来た中からイチロー選手が選んだのは工藤公康氏(現・ソフトバンクホークス監督)などを輩出した愛知の強豪・愛工大名電でした。2年生の夏には左翼手として、3年生の春にはエースとして甲子園に出場しましたが、いずれも初戦敗退と全国的には強烈な印象を残すことはできませんでした。
高校通算打率.501と紛れもない好打者でしたが、それだけでは愛知県内の有名選手に過ぎません。「高校に入る前から、プロになることを考えていた」(『日本人アスリート名語録』p45)と語るイチロー選手にとって、プロの目に留まるためには3年生の夏、甲子園への出場が不可欠でした。
残念ながら愛工大名電は決勝で敗れ出場はかないませんでしたが、イチロー選手は愛知県大会準々決勝で逆転ホームランを打つなど28打数18安打、3ホームランの大活躍を見せたことで、スカウトの注目を集めるようになりました。
この試合をイチロー選手は後に、自分にとって最も重要な試合の一つとして挙げ、その理由をこう述べています。
「あの夏、僕の目標は甲子園に出ることじゃなかった」(『日本人アスリート名語録』p45)
当時のイチロー選手にとって甲子園は単なる目標ではなく、プロ野球選手という次のステップに進むための場所だったと言えます。
2人の恩師との出会いがイチローを生んだ
高校を卒業したイチロー選手はオリックス・ブルーウェーブから4位指名され、念願のプロ野球選手となりますが、当時のイチロー選手にかけられた期待はそれほど大きなものではありませんでした。
線の細さからその実力を疑問視するスカウトも多く、「何年後かにモノになれば」というのがイチロー選手に対するプロの目だったのです。そんなイチロー選手の獲得を強力に後押ししたのがオリックス・ブルーウェーブのスカウト三輪田勝利氏です。三輪田氏は早稲田大学のエースとして活躍したのち、社会人を経て阪急ブレーブスに入団するものの、わずか4年で引退。スカウトとしてイチロー選手を見いだしたことで知られています。
その後、三輪田氏は不幸な死を遂げますが、告別式の日、イチロー選手は人目もはばからずに号泣、МLBに進んでからも帰国するたびに墓参りを欠かさなかったといいます。
オリックスに入団してからの2年間はイチロー選手にとってまさに“試練の時期”でした。1992年7月、左翼の守備固めとして一軍初出場を果たすものの、監督や打撃コーチとの意見の対立もあり、ウェスタンリーグの首位打者やジュニアオールスターМVPといった「二軍での活躍」は目立っても一軍に定着することはありませんでした。
翌93年シーズンも、4月の開幕戦ではスタメンで出場するも7月に二軍行きを命じられるなど、活躍の場は与えられませんでした。この時の心境をこう振り返っています。
「プロに入って2年目、オリックスで二軍行きを告げられた時、悔しくて泣きました。あの時の涙は悔し涙だったと言い切れます」(『NUMBER』700 p24)
ニ軍での、2シーズンにまたがった46試合連続安打記録など、目覚ましい活躍をしても一軍でのチャンスが与えられず悔しい思いをしていたイチロー選手。その才能に注目し、思う存分に開花させたのが94年から監督になった仰木彬氏です。その前には近鉄バファローズの監督として辣腕(らつわん)を振るっていた仰木氏はこう語っています。
「先入観なしに白紙で選手を見るには、結果を出す場をつくるしかない」(『トップアスリート名語録』p209)
隠れた才能を見いだすためにまずはチャンスを与え、結果を出した選手こそが良い選手として、信頼し使っていく……そんな仰木氏が目を付けたのがイチロー選手だったのです。この時、仰木監督の発案で鈴木一朗は「イチロー」となっています。
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