『地雷を踏む勇気』『その「正義」があぶない。』著者 小田嶋隆氏インタビュー
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コラムと「感情」
――「結論をすぐ求める」というところと繋がるか分かりませんが、小田嶋さんは、事実とは別にある「気分」や「感情」を大事にされていて、よくコラムの出発点にされますよね。それによって見えてくるものとは何でしょうか。
小田嶋氏■インテリの人たちって、事実とか科学とか、あるいはちゃんと情報を持ってさえいれば踊らされることはない、そんなふうに思っていたりするのがシャクに触るんですね(笑)。そんなわけはないだろう、と。我々を動かしているのは、判断だったり理性だったり情報だったり事実だったりはせずに、どちらかというと恐怖だったり不安だったり欲望だったり、感情的なものじゃないですか? だから原発にしても、何が問題かと言えば、どの程度有害なのかが何十年も経たないと分からないことなんです。
事実は、真実はどこにあるのか?ってしきりに言ってますけど、今のところそれはまだ分からない。我々が今現在直面しているのは、「事実がどちらにあるか」ではなく「この恐怖と不安に対してどう対峙するのか」という問題ですよね。そこにちゃんと答えを出せている人は本当にいない。不安なのは当たり前なのに、それをバカにするのが許せないわけです。小さい子どものいるお母さんはたいてい強烈な不安感を持ってますし、それは無理もない。
――感情の入る余地がない。
小田嶋氏■「感情」は事実認識を歪める不確定要素だ、くらいに考えている人たちがいるんですよ。まあ科学のためにはそうなんでしょうけど、我々を動かすのは感情だし、幸福感を左右しているのも感情じゃないですか? 感情的じゃないほど判断は正しくなる、って考えているところは、もしかするとさっきのネットの話にも通ずるところがあるかもしれませんね。ネットの議論においてもそういうふうに考えている人たちは多くて、感情というのを理性より一段位の低いものだと思っていたりする。
――必死なのを嫌う思考様式というのも、もしかすると、そういうところに端を発しているのかもしれないですね。
小田嶋氏■直接話すと、声のトーンなどから何かしら伝わるものですが、ネットって特に文字だけの世界ですからね。文字だけで言い合うと論理だけになってしまう。そうすると何が抜け落ちていくかといえば、感情の部分です。そしてコラムっていうのは、理詰めなものに見えて、実は非常に感情的なものなんです。
――「俺は」「私は」で始まるものでもありますしね。
小田嶋氏■日本の特殊事情もあるでしょうけど、新聞記事って、主語を廃して、「事実関係は」みたいな変な主語でものを書くじゃないですか? 「○○が懸念される」とか書いているけど、懸念してるのは誰だ?っていうね(笑)。懸念している人間を受動態にしちゃうんだから、すごいですよ。まあジャーナリズムってものは、記者の主観じゃないんですよ、新聞社の統一見解ですよ、って形でものを書くから主語をなくさざるを得ないんでしょうけど。一方、「私は」という主語で書かれる文章は、そこから「コラム」として分けられる。この「私は」という主語でものを書くということこそが、コラムの1番大切なポイントです。俺はこう思う、俺はこう考えた、俺はこういうのが好きだ、っていうね。
(取材・構成:
辻本力)
●小田嶋隆(おだじま・たかし)
1956年生まれ。東京・赤羽出身。早稲田大学卒業後、食品メーカーに入社。1年ほどで退社後、小学校事務員見習い、ラジオ局ADなどを経てテクニカルライターとなり、現在はひきこもり系コラムニストとして活躍中。
近著に『人はなぜ学歴にこだわるのか』(光文社知恵の森文庫)、『イン・ヒズ・オウン・サイト』(朝日新聞社)、『9条どうでしょう』(共著、毎日新聞社)、『テレビ標本箱』『テレビ救急箱』(ともに中公新書ラクレ)、『サッカーの上の雲』『1984年のビーンボール』(ともに駒草出版)、『人生2割がちょうどいい』『ガラパゴスでいいじゃない』(ともに岡康道との共著、講談社)、『地雷を踏む勇気』(技術評論社)、『その「正義」があぶない。』(日経BP社)などがある。
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