『地雷を踏む勇気』『その「正義」があぶない。』著者 小田嶋隆氏インタビュー
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ネット媒体と紙媒体
――「警句」の連載ももう3年になりますが、ネット媒体に書かれる時と、紙媒体に書かれる時とで、何か違いはありますか?
小田嶋氏■1つには長さの問題ですね。ネットだと書いたら書いただけ載せられてしまうけど、紙だと2行足りないとか余ってるとか、そのへんがシビアですよね。2つには、時事的なところで、ネットだと、締切の前日に起こったことについても書くことができる。長さとタイムラグ、そしてコメント機能ですね。もちろん雑誌編集部に手紙が来ることはあるでしょうけど、それはどちらかと言えばレアケースです。で、コメント欄があることでどうかと言えば、3年間やって辿り着いた境地として、あまり気にする必要はないんだな、と(笑)。
『その「正義」があぶない。』
――気にすると書きづらくなってしまうとか?
小田嶋氏■そこで引っ張られてしまうと、書くものがひどく凡庸になってしまうんです。何か先進的なアイディアが出た時に、それを会議にかけてしまうと、尖っていた角がとれて、つまらないものになってしまうのと同じですね。クリエイティブだったりオリジナルだったりするものは、ある独善を含んでいなければダメなんです。コメント欄に寄せられる意見には、まったく的外れなものもあれば、なるほどなっていうものもある。でも、そこで「なるほどな」って思ってしまうと、自分が自分じゃなくなってしまう。
――タイムラグという話が出ましたが、ネットの方がより新しい出来事に言及でき、かつ読者にもより早く届く。ということは、コメント欄をチェックする/しないはともかく、読者の反応もやはり早いわけですよね。そのへんの時間感覚みたいなものが影響することはありますか?
小田嶋氏■影響しないように心がけていますね。ただ、時事的なところで、計算のようなことはしています。例えば先日の巨人における清武騒動とかでも、ナベツネがすぐ反対声明を出すだろうから、じゃあそれを含みおいた上でこの辺まで書いておこうかな、みたいなことですね。週刊誌とかだと読者の方でタイムラグを差し引いて読んでくれるけど、ネットだと、その日の朝書いているってこともあるわけで、ともすればマヌケに見えてしまうことがある。そういうハードルが上がってきているかもしれませんね。でも、時事的な問題を扱っている限り、しょうがないとも言えますけど。
――まあ、何が起こるかを当てるのが仕事ではないですものね。
小田嶋氏■Twitterとかで「こうだ!」って結論配給業者みたいなことをやってて、どんどん深みにハマッていく例もありますし(笑)。
――『正義』の中で、ネット以降のリスクとして、読者からの反応というのを挙げられていましたが、「炎上」についてはどうお考えですか?
小田嶋氏■ある事柄に関しては、踏み込めば必ず炎上するということが分かっているんです。だから、炎上するのはするとして、どう炎上するんだろう?みたいなことを考えながら書くことはあります(笑)。
――実験のような(笑)。
小田嶋■でも、この2年くらいで、例えば2ちゃんねるの炎上なんかも変わったなぁと。昔は、炎上している中で新たな議論が起こったり、ある種の広がりみたいなものがあったんですが、今はそれもあまりないように思えます。あと、新聞はまったく扱っていないけど、世間では今これについて騒いでいるんだ、というのが分かるある指標にはなっていたし、「内実」みたいなものもあった。でも今は、ある話題に触れればとりあえず炎上する感じですもんね。
――条件反射のような。でも、匿名の存在からいろいろ言われるというのも、しんどいというか、怒りを覚えることも少なくないのでは?
小田嶋■頭に来た時ほど、冷静なフリみたいなことをしとかないとね(笑)。ネットの議論って、どっちが正しいとか、どっちに理があるってことより、「どっちが必死なのか」っていうところで判断される。必死になった方が負け、みたいな不思議なルールがありますよね。で、これって、ネットに限らず現実もそうで。
いつから「必死さ」、つまりは努力しているということが「みっともない」になったのか、これは解明しなければならないですね。今、「俺、必死で頑張ってる」って言って、それが肯定的に受け止められるのってサッカー選手の本くらいなものですよ。スポーツのみ、「必死」が許されるゾーンになっている。なんなんでしょう、国中そんなにひねた目線だらけで大丈夫か?ってね。
地雷原にしか果実はない?
――小田嶋さんのコラムによく出てくる、「面倒くさいけれども」という言葉が印象に残っているのですが、地雷がたくさんあるかもしれない、でも敢えてそれを踏みに行く、という時のモチベーションとはどのようなものなのでしょうか?
小田嶋氏■本当に面倒くさいと思ってるんですよ(笑)。でも、その面倒くさいところにしか果実が落ちてないんです。地雷原に踏み込まない限り実のある議論ができないというか、そういうところにしかコラムの話題がない。カルチャー/サブカルチャーみたいな階層構造のあった時代まではよかったですが、ここまでゴチャゴチャになってしまうと、私がかつて『噂の眞相』でやっていた連載のような、ネタをいじくり回して去って行くみたいな、一種の職人芸であり典型的なコラムというのは書きづらくなった。もちろん私に内在する問題でもあるでしょうけど、どちらかといえば世相の問題ですね。世の中が複雑になりすぎてしまった。70年代であれば、米軍が悪者であるとかエンタープライズという悪い船が来ているとかそういう物語があって、分かりやすくその対象を揶揄すればよかった。でも、今はそれが難しいわけです。
――いつ頃から難しくなったと認識されていますか?
小田嶋氏■2000年以降でしょうかね。バブル崩壊して、不況が20年も続いていて、日本全体で独特の停滞感、右肩下がり感がすごいことになってきた。それからじゃないでしょうか。コラムニストに求められているのが、「何か面白いこと言ってよ」みたいなものではなくなってきているんでしょうね。紙媒体における息抜きとしてのコラム、そういう需要がなくなっている気がします。
――「面白いこと」といえば、「笑い=権力」である、「笑い」によって強要や圧力が生まれる、といったこと書かれていますが、一方で、コラムにおける「笑い」の要素を重視されてもいます。小田嶋さんにとって、「笑い」の機能とその重要さとはどのようなものでしょうか?
小田嶋氏■コラムをはじめ、文字で提供される笑いというのは、言うなれば少々理屈っぽいものです。声だったり動作だったり空気だったり権力だったり、そうした対人的なコミュニケーションのないところで、論理と言葉だけで笑わせなければならない。つまり、すごくテクニカルなものなんです。そもそも、なぜコラムに笑いの要素を持たせねばならないかと言えば、まずは「最後まで読ませるため」なんですけれども。
――議論を走らせるための「笑い」なんですね。
小田嶋氏■人と人が生でコミュニケーションをとる時って、必ずちょっとは笑わせようとするものじゃないですか。だから、それが欠けてる文章っていうのは、どこか基本的なマナーが欠けているような感じがするんです(笑)。とはいえ、そんなご大層なものじゃなくて、挨拶する時、こちらから先ににっこり笑う、それに連られて相手も笑う、その程度のことです。だから「布団が吹っ飛んだ」みたいな、しょうもない駄洒落でいいんです。「このオヤジは懲りもせず、またしょうもない駄洒落言ってるわ」みたいなことがコミュニケーションの間に介在していることが大事なんです。と、「笑わせるべきだ」という「べき論」になっちゃいましたけど、私はべき論はするけどノウハウっていうものは好きじゃないんですね。だからノウハウ本ばっかりが出ているのもすごくイヤで。どうやって笑わせるのか?ってノウハウについて書いてくれって言われたらそれは書きようがないし、「自分で考えるんだね」って言うしかない。ビジネス本のブームなんかからも分かるように、今ってノウハウばかりが求められていますけど、答えがあるようなことでもないのに、「どうすれば○○を得られるか」ってことを延々とやっている。
――即役に立つことが求められている、っていうこともありますよね。それで思い出しましたが、時事的なテーマについて書かれた文章というのはコラムにしろルポにしろ、それなりに即効性というか、ある種の瞬発力のようなものを求められるというイメージがあったんですが、小田嶋さんは『地雷』の中で、「(コラムは)ただちに人生に影響を与えるものではない」と書かれています。つまり、時事的なテーマを扱いながらも、明確に長期的なイメージを持たれている。もしかすると、今のお話とも繋がってくるのかもしれなぁと思いました。
小田嶋氏■あ、そうかもしれないですね。私はそこのところで、ある諦めを持ったのかもしれない。結論配給業者であることを諦めた、と。とはいえ、大抵の書き手は結論を配給しないと書かせてもらえなかったりもするから、難しいところでもありますね。でも結論を求められ続けると苦しくなってしまうんで、私の「結論はない」っていうのは1つの発明ですよね(笑)。いずれにしろ、考え方とかでもなく、とにかく結論を欲しがるという傾向にはありますね。