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TPP(環太平洋経済連携協定)を巡る政策論争から社内公用語として英語を採用する動きまで、日本でもこのところグローバル化の機運が一段と高まっている。今回は、新春にふさわしく、やや長期の時間軸で情報化(=IT化)の潮流を振り返りながら、それをとりまくグローバルな政治・経済の枠組みの変貌を俯瞰して、2011年がどのような年になるのか、思いを巡らせてみよう。
平和の配当がもたらした「IT革命」と「グローバル化」による産業構造の変化
日本経済が停滞に陥ったのは、冷戦が終結し、情報化とグローバル化が本格化した1990年代以降のことだ。今からちょうど20年前の1991年は旧ソ連が解体し、20世紀初頭に現れた社会主義という壮大な「仕組み」が崩れ去った年でもある。一見するとITには無関係と思えるこの出来事が、実は、今日に至る情報経済の歩みにも深く影響している。第一に、冷戦終結による「平和の配当」で技術開発に関わるヒト、モノ、カネなどの経済資源が軍事関連から民生部門のIT関連にシフトしたこと、第二に、旧社会主義諸国が市場経済へ移行したことによって、人口比で2割程度に過ぎなかった市場経済圏が一気に広がったことだ(
図表1の左 )。
コンピュータやインターネットなどのITは、軍事関連での取り組みが技術開発の大きな原動力であったことは否定しようがない。世界最初の電子式コンピュータについては諸説あるが、そのひとつとされるENIAC(Electronic Numerical Integrator and Computer)は、砲撃兵器の弾道計算を目的に開発され、インターネットの前身であるARPANET(Advanced Research Projects Agency Network)は、旧ソ連の核攻撃に備えて、有事の際にも全体がダウンしないようなネットワークの開発を目的に進められたものだ。
こうした背景で発展してきたITが1990年代に経済領域で開花したのは、冷戦終結にともなう技術資源の軍民転換(Defense Conversion)が米国でドラスティックに起きたからに他ならない。米国のGDPに占める国防支出の割合と民間企業投資の割合を1990年と2000年で比較すると、前者は2.2%ポイント低下し、後者は逆に2.0%ポイント上昇しているが、そのうち1.8%ポイントがIT投資で占められている。
1992年に発足したクリントン政権の下で「情報ハイウェイ構想」が掲げられ、IT分野の将来性が脚光を浴びたことも手伝って、ヒトの面では国防関連から新興ハイテク企業へ技術者の移動が、モノの面ではIT関連の企業投資やR&D投資が、カネの面ではベンチャー・キャピタルなど民間資金の流入がわき起こったのだ。
しかも、その活動舞台は、グローバルに拡がった。冷戦が終結した当時の世界総人口53億人のうち、いわゆる西側陣営で市場経済に属していたのは、日本、米国、西欧、豪州に東南アジア諸国を含めて約12億人で、全体の4分の1以下であった。そこへ旧社会主義経済圏が新たに「市場化」したわけだが、これらの国々は人口規模が大きい(当時の中国は11億人、インドは8億人、旧ソ連・東欧は4億人)反面、一人当たり所得はかなり低い水準にとどまっていた(
図表1の右 )。
重要なのはその経済的な影響だ。新たに市場化した経済圏の安くて豊富な労働力をうまく活かせば、大きなビジネス・チャンスが生まれる。実際、1990年代をふり返ると、パソコン製造・直販のデルや小売大手のウォルマートなど、ITを駆使してグローバルに拡がるサプライ・チェーンを巧みに構築した企業が事業を急拡大させた。
その一方で、新たな課題も突きつけられた。「冷戦に勝利」した先進諸国は、価格競争の激化に直面し、より付加価値の高い産業構造への転換が迫られたのだ。新しく市場経済化した国々からふんだんに供給される領域にヒト、モノ、カネを張り付けていたのでは、賃金が同じ水準に引き寄せられてデフレ圧力がかかり続ける。これを国際経済学では「要素価格均等化定理」というが、この陥穽(かんせい)にはまらないためには、ネクスト・マーケットに向けて経済資源をシフトさせることが不可欠だ。
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連載の第11回 でみたように、梅棹忠夫(1963)が約50年前に展望していたことだが、冷戦終結後のグローバル化でその潮流が一段と加速したようだ。
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