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情報化社会論をめぐっては、1960年代から1980年代に多様な議論が展開されたが、今回は、“コンテンツビジネス”の未来を世界に先駆けて予見した1963年の梅棹忠夫の「情報産業論」を取り上げよう。生態学、動物学、民俗学をバックグラウンドに持つ梅棹ならではのユニークな「発展段階論」は、コンテンツ化の潮流を読む上で今も示唆に富むものだ。
情報産業は「虚業」か?
1963年に発表された梅棹忠夫(うめさお ただお)の「情報産業論」には、情報経済(Information Economy)を考えるにあたって、現在も示唆に富む多くの概念が提示されている。
日本で1953年に始まった地上波の民間テレビ放送は、その後の高度経済成長による「豊かな社会」の到来と軌を一にして業容を拡大させてきた。
前々回(第9回:消費的情報と経済発展)で解説したように、社会が豊かになると、鑑賞で効用を高める「消費的情報」の需要が拡大するが、民間テレビ放送は、まさにこの発展軌道に乗ったわけだ。
とはいえ、梅棹の論文が出された頃はまだその黎明期で、民間テレビ放送は花形産業というわけではなかった。高度成長の真っただ中にあった1960年代は、農村から工業地帯への人口大移動が進行しており、有形の「モノ」に大きな価値が置かれる工業時代の全盛期だった(
図1)。そのため、製造業などの「実業」に比べると、物的な実態がない放送など「情報」に関連した仕事は「虚業」という感覚が業界関係者の間にもはびこっていたようだ。
そうした傍流意識を打ち破り、産業としての積極的な価値と発展の方向を訴えたのが梅棹の「情報産業論」だ。理学系の生態学、動物学を出発点に、戦前から世界各地のフィールド調査を経験し、民俗学や文明論に研究の軸足を移していた梅棹は、「情報はモノと違った価値があり」これからの時代を担う「明らかな知的生産」活動だと考えた。今では一般化している「情報産業」という用語はこのときの造語とされる(
※1)。
彼のいう「情報産業」とは「何らかの情報を組織的に提供する産業」であり、新聞や雑誌も含めて「マスコミの時代」が訪れたと指摘している。後述するとおり、彼は、情報化によって「精神の産業化」が進むとも考えており、既に50年前から今の言葉でいう「コンテンツ」の概念を含めて、巨視的に情報産業をとらえていた。
“情報”を「人間と人間とのあいだで伝達される一さいの記号の系列」と広く定義し、それを「売る」ビジネスが“情報業”だと考えるならば、「興信所から旅行案内業、競馬・競輪の予想屋にいたるまで、おびただしい職種が、商品としての情報を扱って」おり、「映画や芝居」「歌謡曲」「教育」「宗教」なども含めて巨大な産業が形成されることになるのだ。
50年前に「コンテンツ」の重要性を指摘した慧眼
興味深いのは、これらの産業における「技術の発展」に関する記述だ。歴史をふり返ると、中世の歌比丘尼や吟遊詩人、神を情報源とする情報伝達者の宗教人、占星術者や陰陽師、権力者に秘策を説く諸子百家など、「語る」ことで生計を立てる多くの「情報屋」が存在しており、「産業化」に至るまでに永い「前史」が存在する。
ただし、かつての「情報屋」にとっては、「舌」こそが「ほとんど唯一最大の資本」だったため、社会の中で細々とした存在だったのに対して、今では印刷や電波など「情報の記録・伝達の技術発展」が実現し、これからはさらに「自動計算機械の開発など情報処理の技術」が「おどろくべき発展をとげるにちがいない」から、技術進歩を梃子に情報活動が急速に拡大して「産業化」の軌道に乗るはずだと彼は考えた。
その上で、新聞や放送を取り上げ、情報=コンテンツの重要性について、次のような鋭い指摘を行っている。すなわち、「新聞社の売るものはもとより新聞であるが、新聞とは、物質としての新聞紙ではない。新聞紙そのものは(中略)間に合わせ的な包装材料であるにすぎないし、その売買は廃品回収業者の仕事である。新聞社が売っているものは、新聞紙という物質的材料の上に印刷されたニュース」であり、また、「民間放送において、しばしば“時間を売る”という表現がとられるけれど、売っているのは(中略)時間ではなくて、その時間を満たす“情報”なのである」と。
メディアとコンテンツを峻別し、メディアを舞台に技術革新が進むとしても、価値の源泉がそこにあるわけではないことを鋭く洞察しているのだ。メディアは「情報の容れもの」に過ぎないと喝破した彼の考察は、技術進歩で情報=コンテンツの価値がますます高まっている半世紀後の現在を見通した、まさに慧眼(けいがん)といえる。
注釈
(※1)読売新聞2007年10月6日付「時代の証言者」参照。
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