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日本社会が年々、貧しくなっているという現実については、多くの人が認識するようになった。だが、生活者の実態は可視化されにくく、頭では分かっていても、従来の感覚から抜け出せない人も多い。こうした貧困に対する認識のミスマッチは、福祉行政はもちろんのこと、消費者を対象としたビジネスの世界にもマイナスの影響を与えている可能性が高い。日本の貧困について、ビジネスという観点から考察した。
行政だけが貧困対策を行うわけではない
日本はかつて「1億総中流」と言われ、貧富の差が少ない暮らしやすい国とイメージされてきた。だが、現実は違っており、日本社会は貧困化している。
一般的に貧困の度合いは相対的貧困率(可処分所得が中央値の半分以下の人の割合)で示されるが、2015年における日本の相対的貧困率は15.6%となっており、先進国の中では突出して高い。福祉が手厚いといわれる欧州各国は1ケタ台のところがほとんどであり、これほど高い貧困率となっているのは米国と日本だけである。
相対的貧困率という統計については、実態と乖離しているとの批判もあるが、実際はそうでもない。日本の等価可処分所得の中央値は約245万円となっており、貧困レベルはこの半分の123万円以下ということになる。家族の人数で調整されたものではあるが、この金額で普通の生活が成り立たないことは明白だ。収入が300万円以下の世帯も30%を超えている。単身なら何とかなるが、子供を養うということになると生活はかなり苦しいだろう。
これまで、貧困の問題は生活保護など福祉行政の観点で議論されることが多かった。したがって、年収がいくら以下の場合に給付を行うべきかといった、支援基準や支援内容の話が中心となっていた。もちろん、支援の対象とする貧困ラインをいくらに設定するのかというのは重要な問題ではあるが、行政だけが貧困問題に対処しているわけではない。
小売店や外食産業など各種サービス業や製造業にも、生活者の実態に合わせた製品やサービスを提供することで、所得が低い人の生活を支援する役割がある。米国最大のスーパーであるウォルマートは、画一的な商品構成から消費者の不満も多いが、一方で、こうした安価な商品群が低所得者の生活を支えているのも事実である。
所得の低い世帯がかなりのボリュームとなっている現状を考えた場合、彼らの生活実態がどうなっているのか、どの程度の購買力があるのか、どのような製品やサービスが求められているのか、などについて議論するのは有益なことだろう。
どの所得水準から何をあきらめ始めるのか?
一般に、人々の生活水準は所得が低くなるにつれて徐々に下がっていく。だが、ある水準以下になると極端に生活水準が悪化するという「しきい値」が存在しており、このラインがどの程度なのかは重要な意味を持つ。
図1は、社会的必需項目(社会生活を営む上で必須の支出)をどの程度、あきらめているのかについてグラフ化したものである。数字が大きいほどそれをあきらめている割合が高いことを示しているが(剥奪指標と呼ばれる)、世帯収入(厳密には等価所得)が360万円と220万円の部分で大きな変化が見られる。
220万円の以下の世帯になると、必需項目ですらあきらめざるを得ないというのは想像できる話であり、そうであればこそ、この所得層には福祉による手当てが必要とされる。だが、現実には360万円以下から、こうした必須項目をあきらめる世帯が増加している。貧困にはカテゴライズされない所得層でも、実質的な生活水準の低下が始まっているのだ。
日本の場合、福祉行政の世界においても、こうしたアプローチは試行錯誤の段階である。ビジネスの世界でも、この視点はあまり共有されていない可能性が高い。
どういった製品やサービスが必須なのかは人によって異なるが、たいていの人が必須と考えるものは、社会的に必須であると見なすことができる。例えば、医療や保険、通信手段、浴室、トイレ、暖冷房などは、誰にとっても欠かすことができないものである。
だが、趣味やスポーツ、子供へのクリスマスプレゼント、家族旅行、玩具などについては、絶対に必要と考える人の割合は低下してくる。年収が下がるにつれ、こうした優先順位が低い支出からの切り詰めが始まり、やがて、必須の支出についてもカットせざるを得なくなる。先ほどのグラフにしきい値が2か所あることは、こうした状況を浮き彫りにしているといってよいだろう。
全員にとって必須ではない支出項目について、ただ我慢すればよいというのは少々乱暴な議論である。もう少し高めの所得水準から、さまざまな「あきらめ」が始まっていることを前提に、この部分をうまくカバーできる製品やサービスが実現できないか検討した方が有益だ。
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