連載:キャラクター経済圏~永続するコンテンツはどう誕生するのか(第24回)
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『ドラえもん』と言えば国民的キャラクターの代表例だろう。キャラクター認知度95%、好感度61%という数字は2023年時点であらゆるキャラクターの中でNo.1である。これは、クレヨンしんちゃん、ハローキティ、となりのトトロ、アンパンマンよりも高い数値となっている(出典:CharaBiz Casting book2024)。
歴史も長いドラえもんだが、まだまだ売上を伸ばす可能性を秘めているのだ。今回は、ドラえもんが国民的ヒット作になっていった経緯を辿りつつ、現在、何が売上増を支えているのか、関連売上の内訳を見ながら解説していく。
作者・藤子不二雄氏の最初のヒット作『オバケのQ太郎』
ドラえもんの作者・藤子不二雄氏の名前は、藤本弘(ふじもと・ひろし)氏と、安孫子素雄(あびこ・もとお)氏の2人のマンガ家による共同ペンネームである。1933年12月生まれの藤本(F)と、1934年3月生まれの安孫子(A)は、富山県高岡での小学校以来の同級生だ。
藤子不二雄氏にとって、キャラクター市場を切り拓くことになった最初の作品は、1964~1976年連載の『オバケのQ太郎』であった。当時は国内だけでは採算がとれないため、無理やり“無国籍化”させて海外に売るアニメ作品が多く、『鉄腕アトム』(1963年)に倣ってヒーローものばかりが制作・輸出されていた。
オバケのQ太郎も無国籍化が要求される中で、「分厚い唇が黒人を連想させるから海外ウケがいいのではないか」という今では考えられないような意見も出たという。そうした中で、1965年にアニメ化され、1967年に打ち切りになる(出典:南博.ドラえもん研究 子どもにとってマンガとは何か.ブレーン出版,1981年)。
とはいえ、視聴率が低かったわけではない。視聴率30%程度を記録する大人気コンテンツであったが、1980年代に至るまでアニメ化は“原作を食いつぶすもの”としか考えられていなかった。「映画化されれば別ですが、テレビになっても本の売れ行きは関係ありません」とされ、スポンサーだった不二家のお菓子が売れなくなったというだけであっさり中止となった。
これは藤子不二雄氏にとっては挫折体験であり「僕たちはまだまだオバQに愛着があったが、テレビ局、スポンサー、出版社という三大勢力のドッキング作戦にはさからえず、パーマンという新キャラクターをつくった」と振り返っている(出典:藤子不二雄A,藤子・F・不二雄.藤子不二雄A 藤子・F・不二雄 二人で少年漫画ばかり描いてきた.日本図書センター,2010年)。
1度は失敗…なぜ「2度目のアニメ化」は実現した?
ドラえもんの漫画連載が始まったのは1969年のことだ。当時、作者である藤子不二雄氏はすでにデビュー19年目と、キャリア成熟期を迎えていた。ドラえもんはそうした時期の作品でもあり、またその世界観・設定は、あまり人気の出なかった過去作『21エモン』に依っている部分も大きい。
実際に1973年4~9月に放送されたテレビアニメ(制作:日本テレビ動画)は、吹き替えもキャラクター設定もちぐはぐで人気もそこそこ。最後はアニメ会社が倒産して夜逃げしたために中止となるなど、テレビアニメ化に一度失敗しているのだ。
このように、1970年代におけるドラえもんは、あくまで「卒業していく“子供”に向けた一時的な娯楽作品」に過ぎなかった。しかし、この間も藤子・F・不二雄氏はコツコツと学年誌でドラえもんを連載し続けた。
なにせ1970年代は小学館学年誌の黄金時代。『小学一年生』からはじまり、各学年誌がそれぞれ毎月100万部越えを記録するお化け雑誌となり、当時の新興出版社であった小学館を急成長させた時代である。藤子不二雄氏は、対象学年に合わせてストーリーの難しさを変えつつ、各学年誌の連載が1年で最終回を迎えるよう意識しながらドラえもんを描き分け続けた。
もともとドラえもんは、低学年での卒業が見込まれた“人気に時限性のある作品”と考えられていたが、人気のあまりに小学五年生や六年生を対象とした学年誌でも連載が始まった。これが1974年のことである(出典:横山泰行.ドラえもん学.PHP研究所,2005年)。
こうした学年誌の盛り上がりからも分かるように、1970年代は“学年ごと”で遊びや娯楽が異なる傾向があった。それが、いわゆる「子供」「青年」という、異なる年齢の集団が共通のコンテンツに触れるようになるキッカケがテレビであった。ドラえもんが人気になるのもまさに、1979年にアニメ制作会社のシンエイ動画とテレビ朝日が始めた、2度目のドラえもんのテレビアニメ化からだ。
すでに1度目のアニメ化でいいように振り回されてきた藤子不二雄氏は反対していたが、それを覆したのが後のスタジオジブリを牽引したアニメ監督・高畑勲氏である。
「ドラえもん“覚書”」として、高畑氏が設定したドラえもんアニメのポリシーこそが、そこから45年以上にわたり全1400話以上を展開する「テレビアニメシリーズ」を生み出す原点である。この企画書を読んで、初めて藤子不二雄氏は2回目のアニメ化を承諾したのだった(出典:高畑勲.ドラえもん“覚書”. 藤子・F・不二雄ミュージアム展示資料)。
ここからは、2度目のアニメ化からはじまるドラえもんの快進撃と、現在のドラえもんの売上に大きく貢献している“ある市場”を解説したい。
【次ページ】「アニメ化成功」衝撃の効果、コミック売上どれだけ増えた?
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