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- 2018/06/18 掲載
イノベーションのために、「フィルターバブル」を乗り越えろ
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情報を「醸造できない」若者たち
筆者は大学で教鞭をとっている。数十人を前に一方的にしゃべる講義科目とは違い、ゼミは10人未満の少人数の学生と対話形式で進めていくため、各人の興味関心や問題意識をわりと明確に把握できる。4年次には卒業論文の指導も行うので、学生たちそれぞれの研究テーマを知っておくことは教員として当然であり必須と言えるだろう。学生もさまざまで、最終学年の夏季休暇を終わっても「何を書けばいいのかわからない」という人もいれば、興味関心や問題意識をもち、適宜相談に乗ったり参考文献などを提示したりすれば自力でどんどん掘り下げていく人もいる。
しかし、である。ここ数年しばしば気になるのは、好奇心が強く思考力も優れた学生であっても、「えっ、コレは知ってるのにアレは知らないの?」という場面によく遭遇することだ。
彼らは20世紀のほぼ終わり頃に生まれた若者たちだから、未知の情報に出会えばすぐさまウェブで検索する。授業中に筆者が紹介する書籍などもスマホで即アマゾンに在庫があるか否かを調べているようだ。それはそれでまったく否定するつもりはないし、受け身一方の態度より数倍ましであり、どちらかといえば推奨したいくらいである。
ところが、上述したように「ある情報に紐付いていてしかるべき付帯的な情報」が拾い切れていないケースが年々増えているような印象が否めない。
もちろんこれは数値で証明することなどできないし、すべての学生に当てはまることではないものの、傾向としては確実に増加しているような気がしている。
これは要するに情報同士を相互に連結しているハイパーリンクを発見できていない、もっと言ってしまえば、せっかく摂取した情報を自分の中で醸造できていないということである。
ある情報は他の情報との間に複数のハイパーリンクを張り巡らすことによって立体的な知識となる。そしてこのハイパーリンクを新規に発明することが視点/視座のオリジナリティーということであり、情報を「編集」することの本質にほかならない。
ますます深刻化するパーソナライゼーションの弊害と危機
これだけ情報が入手しやすい環境が用意されているにも関わらず、学生たちがそうした情報の連鎖を形成できないのはなぜなのか……?筆者が同年代の40代後半の知人や友人と飲んだりするとしばしばインターネットの商用利用がまだ始まっていなかった学生時代の話になる。「当時、自分たちはどうやって情報を収集していたのか?」などと過去を追想しながら、「あの頃、インターネットがあったらなぁ……」と現代の若者たちをひたすら羨ましがるというお定まりの会話が繰り広げられるのだ。
しかし、現代の学生も情報の収集に関してはかつてとは質の異なる枷を負わされているのかもしれない。俗に言う「フィルターバブル」の問題である。
「ビジネス+IT」の読者にいまさら解説など不要とは思うものの、いちおう簡単に説明しておこう。
「フィルターバブル」とはグーグルなどの検索サービスにおいてユーザーのパーソナライゼーションが高精度化した結果、表示される内容が多様性を欠いた画一的なものになってしまうという皮肉な現象である。
つまり、筆者などの世代がよく口にする「この時代、情報なんて(あらゆるメディアとの接触頻度が増える環境にあるのだから)自分から集めようと思わなくても勝手に集まって来てしまうものだ」という主張は、案外、幻想かもしれないのだ。
私たちはインターネットという情報の大海から主体的に記事や文書を選別しているわけではなく、大海に浮かぶカプセルのような小さな泡の中で、個別化という名の耳障りのいいフィルターによって濾過された限定的な情報だけをこねくり回しているのかもしれない。
【次ページ】イノベーションとは「編集的な組み合わせ」である
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